2005年04月27日

岩手県江刺市 及川純一 4日目 人首村

4月27日(水)快晴
 今日は中心市街地から離れて、山村の話しをしたいと思います。

 江刺市米里はかつて人首村と呼ばれていました。今でもまちは人首町、横を流れる川は人首川と呼ばれ人首という名が残っています。人首村と聞いて横溝正史の世界を想像した人もおられるでしょうが、名付けの理由におどろおどろしい過去を期待されても困ります。でも人の首と大いに係わりあることは事実です。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍としてこの地にやって来たとき、抵抗したのが悪路王(大岳丸)です。やがて抵抗空しく処刑されてしました。その子人首丸は逃げ落ちて隠れましたが朝廷軍の知るところとなり、捉えられ斬首されてしまいました。若干15才の美少年だったと言います。今から1200年前の話しです。口伝では切られた首が空を飛び、近くの川に落ちて水を真っ赤に染めたと言います。それ以来、その川は人首川、まちは人首町と呼ばれtるようになりました。ただし、人首と書いて「ひとかべ」と読みます。
 私はこの地に親戚がいて小学校の殆どの休みにはこの地で遊んでいました。起伏に富み奥深い北上山地のはずれ、山ひだに抱かれるように集落が点在しています。入母屋の茅葺き屋根が典型的な山村景観を見せていました。子どもながらに美しいと感じていました。水が豊富で魚も多く、私は魚の採り方を教わりました。私の原風景を育んでくれた所なのです。
 



一方で非常に不思議な文化を持つ所でもあります。山村ながら都会の匂いがするのです。これがもう一つの魅力です。この魅力の形成には歴史が大きく係わっていると思っています。慶長11年に伊達藩となり南部藩との藩境として重要な場所であると共に、内陸と沿岸を結ぶ交通の要所であり宿場町として栄えました。
 また、金や銅を産出する鉱山がかなりありました。大野、小屋沢、古歌葉(こがよう)金山は平泉時代に発見採掘された物で近世まで採掘していました。当時の鉱山は公政不入の地とされ、一種の治外法権地域であったとされます。そのため多くの切支丹が流れ込み、鉱山で働いていました。伊達政宗は切支丹を容認していたしその家来である後藤寿庵は水沢で布教活動行っていました。そのため岩手県南には切支丹が多くいたと思われます。宣教師達も鉱山を巡って布教活動を行ったようです。
 明治期になると禁止令が撤廃されますが、この地にはロシア正教とカトリックの二つの教会がそれぞれ建設されていきます。小さな町の中にキリスト系教会が二つあったのです。ロシア正教は明治12年から布教が行われ23年に教会堂が建設されています。当時の信者は300名を越えたと言います。その後教会堂は二度も火事に遭い、現在は残っていません。明治40年のロシア革命以後急速に衰えて、信者も大正末には


120余となり現在は14名です。
 カトリックは明治17年に教会を建てています。38年頃フランスからアンジェラスの鐘を輸入し設置しています。以後戦後の一時期まで毎日、この鐘の音が山間に響き渡っていたことになります。わたしが小学生の頃は聞くことがありませんでした。
 文学との係わりも深く、宮沢賢治は「五輪峠」や「人首町」にその感想を残していますし佐々木喜善、草野心平、串田孫一も感想を文章に残しています。また、詩人佐伯郁郎はこの地で生まれています。

 人首村は蝦夷の文化を下地にしながら、平泉文化、宿場町に泊まる人々、鉱山で働く切支丹など多くの人々と彼らの持つ文化を受け入れてきたのだろうと思われます。山村なのに都会の匂いがする不思議な感覚は私だけの物なのかもしれませんが、このような歴史によって生まれ、育まれてきたものではないかと想像しています。
 人首村は現在も都会からの移住者を多く受け入れています。一つの集落の半分近くが移住者という所もあります。今度はこの人達によってまた新しい人首の文化が創られていくのではないかと密かに期待しています。
写真上:古歌葉集落
写真下:人首町並






posted by LJ21 at 18:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 岩手県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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