2005年05月31日

国際協力機構(JICA、ジャイカ) 小林英里子 2日目

JICAの仕事は、一言で言ってしまえば「@日本国民の税金を使ってA開発途上国の発展の手助けをしよう」ということです。

解説その@日本国民の税金とは?→いわゆるODA(Official Development Assistance:政府開発援助)と呼ばれるもので、日本の年間ODA総額は大体1兆円ぐらいです。つまり一人当たりに換算すると、約1万円弱のお金を開発援助のために払っているということになります。「一人当たり1万円」と聞いてどう思われますか?おそらく、「予想以上に多い」と感じる方が多いのではないでしょうか。確かに、金額だけを見れば日本のODAはアメリカに次いで2位(ちなみに2000年までは1位でした)で、なかなか頑張っているように思えますが、国民総所得に比較して考えるとODA拠出国中20位・・・「日本人は稼いでいる割にケチ」と言われても言い訳が難しい状況です。

解説そのA開発途上国の発展の手助けとは?→手助け、というからには、相手がどんなことに困っていて、どんな助けが必要なのかを知ることがその第一歩です。相手国の人たちと膝をつき合わせてじっくり話をして、彼らが何を必要としているのか、それは日本ができることなのかをよく考えた上で、一緒に計画を立てます(まぁ実際にはこのプロセスがスムーズに進まない事もよくあるのですが・・・)。計画を立てる段階から相手国の人たちと一緒に考えるのが、日本の援助の一つの特長と言えます。

なるべく分かりやすく、面白い説明にしようと思っていた割には、読み返すとやっぱり小難しい雰囲気が漂ってしまいました・・・すみません。
もっと具体的なイメージを持ってもらえるように、明日は、私が担当していた実際のJICAのプロジェクトのお話をしようと思います。

*写真は、中米のホンジュラスで活動している算数教育分野の青年海外協力隊員(JICAで派遣しているボランティア)です。ホンジュラスでは算数が嫌い・苦手な子どもが多いので、もっと楽しんで算数を学べるように、青年海外協力隊の人たちが身近なものを使って教材を作り、展示会を開いた時の様子です。


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2005年05月30日

国際協力機構(JICA、ジャイカ) 小林英里子 1日目

はじめまして、小林英里子と申します。
国際協力機構(JICA、ジャイカ)というところで仕事をして6年目になります。
この日記を読んでいらっしゃる方でJICAという名前を聞いたことのある方はどのぐらいいるでしょうか?2001年に電通さんにお願いして行ったJICAの認知度調査では、「名前を知っている」と答えた方が全体の3割、「名前と事業内容両方知っている」と答えた方になるとたったの5%という、なんとも悲しい結果が出てしまいました・・・。
ということで、今週の日記では「JICAっていったいどんな仕事をしている団体なのか?」ということについて、極力分かりやすく、面白くお伝えできればと思います。

それから、7月初旬からアフリカのガーナという国に赴任する予定なので、後半ではガーナの情報(と言っても私も今目下勉強している最中なのですが)をお伝えしたいと思います。

それでは、これから1週間お付き合いの程どうぞよろしくお願いします。

*写真は、以前出張で行ったアフリカのニジェールという国で出会った子どもたちの写真です。つやつやした黒い肌とカラフルな衣装がよく似合っていて本当に可愛らしい!



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2005年05月29日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 6日目

今日は2日目で紹介した牛と田かきが行われました。
外に出たことが初めてのメス牛で、青空と多くの人を目にして興奮していました。初めての代掻き作業に困惑し、先導役の「鼻とり」の目を盗んで田んぼの外に出ようとしていました。
4年目の今年は、東京から写真を取りにきた人や、4年連続通っている人など、合計100名の方が訪れました。


また、主催団体のたき火会では、石引きという固い地盤の代掻きの方法なども今年初めて披露しました。
私たちの原点の活動と、私たちの活動はますます活力が増してきています。


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2005年05月28日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 5日目

私たちのNPOが9人のスタッフを抱えていられるのは、市などの委託事業があるから、といっても過言ではありません。
水道水源となっている森の価値を普及啓発する「くわどり市民の森」、廃校になった小中学校を利用し、小中学生を主な対象に山里の伝統技術などの環境教育プログラムを提供する「地球環境学校」、地域の用水を維持する土地改良区の事務、茅葺き古民家や体験農園の運営管理、その他多数あります。(写真は地球環境学校がフィールドとしている中ノ俣の棚田の風景)
17年度は、委託事業数10以上、委託総額4,000万円を超えています。
数字以上に重要なことは、委託事業担当のスタッフであっても、委託内容に縛られず、地域行事の支援、伝統文化の記録保存、環境美化活動への参加、地域観光資源の掘り起こしと事業化、農業振興と商品化・販売促進、地域自治政策の提案などをNPOのスタッフとして積極的に行います。
ちょっと見方を変えれば、私たちのNPOがちょっとした地域の自治事務所か、もしくは市の企画課のように機能しているようにも見えます。市の各課がばらばらに実施しようとする施策を、地域という「面」で取りまとめ、発展させる役割を果たしつつあるのです。
また、立上げからの4年間に、スタッフが積み重ねてきたソフトノウハウは膨大な量です。


予算に占める委託事業費の割合が多いことは、財源の多様性から言えば問題だといえますし、収益事業を拡大する努力もしています。
しかし、委託事業に「依存」しているかといえば、それは違います。
まず、精神的な面からいえば、理念に合わないことや納得できないことは、仮に市とけんかして委託事業がなくなるとしても、絶対にやらないのです。
私たちはこのような市との関係を、「右手で握手して左手で殴りあう関係」と呼んでいます。ですから、委託事業の方針や内容についても、決定までに徹底的にやりあいます。
また、実績と対価に関しては、専門性や情熱を持ち、地元との関係も非常に良く、相応の実績を積んでいるため、他にその事業を取って代わるNPOも事実上ないため、妥当に得られる対価であるとも考えられます。
あるいは、専門性を持ったスタッフが普通に家庭を持って継続的に関わっていける、ということを水準とすると、対価としては少ないともいえます。
先にも述べた、委託事業の中で私たちのNPOが積み上げてきた、ソフトノウハウという知的財産は誰のものか、またそれへの対価が妥当なのかどうかもこれから考えていかなければなりません。


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2005年05月27日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 4日目

私たちの活動は多岐にわたっています。
茅葺き古民家の改修学校、森林・棚田保全のためのオーナー制度、作付けから収穫・調理までの農業学校、季節の散策、かんじき・わら細工作りなどの伝統技術体験など。
これらの活動を、私たちはボランティアでやっているわけではありません。
まず、自分が楽しいということが一番です。表現が軽くなってしまいますが、「趣味」となんら変わらないのです。
楽しくなければ続きませんし、活動において何かをせねばならないという義務感や正義感が強くなればなるほど、そのボランティアの対象に否定されたときに、「何でしてやってるのに、そんなことを言われなければならない」と必然的に感じてしまうでしょう。
要するに、それは自分が良かれと思ってやったのに、独善でしかなかったということになります。批判されたことに対する反感。これはまさしく独善そのものです。
だから、私たちは自己満足であると、自分が楽しいからやっているのだと最初から認識するのです。



また、ボランティアでできることは、崩壊の速度と比較すると、つめの先ほどでしかないのです。
一体どれだけの茅葺きを葺きなおせるか、どれだけの森や農地を守れるか。どうあがいたところで、自分が無力であることがわかるだけです。
輝いて見えるもの、価値があると感じたものを整理し、その価値を感じられる人にちゃんと見せられる「商品」を作っていく。
価値に対して対価を払ってもらい、経済の循環の中で対象を保全していくことが、人が幸せに、誇りをもって生きられることの最低条件でしょう。
その価値をよく理解した上で、集落全ての屋根を茅に葺きなおせば、それは何ものにも変えがたい価値へと変化し、産業へとつながっていくかもしれません。
どこまで馬鹿になって徹底的にやれるか、残すべき価値を経済と結び付けていくか、NPOの真価が問われています。


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2005年05月26日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 3日目

私たちの事務所の隣に「横畑の門番」と呼ばれ、地元の人からもやかましいじいさんだと噂のおじいさんがいます。よそから来た山菜採りを追い払うことからそう呼ばれるようになったのです。
そのおじいさんは85歳になるのですが、せがれが街に出たため一人暮らしで、田畑の作業、井戸掘り、雪掘りなど、自分の生活に必要なことを一人でこなし、時には100kgを超える石を一人で運んでいるスーパーな人です。
私たちNPOのスタッフは、設立してから3年間(昨年まで)、そのおじいさんに度々怒鳴りこまれました。
「水路に石が落ちたので拾え」「雪を水路の上に捨てるな」「火をたきっぱなしでそばを離れるな」など、山の生活で放っておけば危険なことを経験の上から知っているため怒っていて、いちいちごもっともなのですが、説教が始まると1時間は覚悟しなければいけません。時には始末書も書かされました。
「おまんた(あなたたち)は山の生活を知らんすけ、こういうことをする。NPOなんて遊びにしか見えん」とよく言われました。
もちろん、危険が心配だから怒鳴り込むのですが、それ以上に、旅の者に対する不信感と排他的な感覚があったことも事実でしょう。
地域活性化を目的としている、第三セクターの温泉施設が今年で6年目を迎えるのですが、おじいさんはこれを今でも「悪の基地」といいます。
たくさんの人が訪れるようになり、山を荒らされることも増えたというのです。


私たちスタッフは、そのおじいさんを始め、地元の誰と接するときも、とにかく謙虚に学ぶことに勤めました。
その門番のおじいさんは昔の伝統文化や民具、写真などをとても大切にしていて、何やかんや言われながらも、教わることがたくさんあり、こちらが調べた資料などを持っていくととても喜ばれました。
その他、そのおじいさんの稲刈りの手伝い、雪掘りの手伝いなどを行ううちに、私たちとおじいさんは春の雪解けのように打ち解けあえるようになりました。
いかに組織の評判が良くても、全ての人に信頼されているわけではない。一対一の信頼関係でしかないことを思い知らされる出来事でした。
温泉施設も、その従業員が施設の外に出て粘り強い関係作りを行えば、いつの日か「悪の基地」ではなくなるときが来るかもしれません。
あるいは、そのクッション役をやるのが私たちNPOの役割かもしれません。


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2005年05月25日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 2日目

私たちの活動の原点は、囲炉裏を囲んで一杯やることです。
そこから活動が生まれ、そして地元の者と旅の者の間に信頼関係が生まれるのです。
いや、そんなまじめくさった話より、飲むために活動しているといっても過言ではありません。

常勤スタッフは9名で北海道から長崎まで、日本全国から集まった、平均年齢が20代後半の若者たちです。
この土地で見るもの聞くもの触るもの、そして食べるもの、全てが新鮮(かつ、美味しい?)なのです。
よそからやってきた若者が興味本位で地元の昔話を聞き、それを実施していきます。


地元のじいさんばあさんは、「そんなことに興味を持つなんて近頃じゃ珍しいねえ。感心だねえ」といって、知っていること全てを惜しみなく教えてくれ、再現に協力してくれます。
汚くて、きつくて、劣等感さえ持っていた昔の伝統的な生活技術が、新聞やテレビのスポットを浴び、地元の人々は先生として主人公となる。
そこに生きる人全てが、「生きる」ということを教えてくれる先生なのです。誰もが先生になれるのです。

中ノ俣という集落で行われた「牛と田かき」という伝統技術の復活イベントは、「囲炉裏で飲む」「昔話を聞く」「とにかくやってみることになる」「大きな反響を得る」「次の活動につながる」「他の地域も刺激する」という、地域資源掘り起こしの活動上昇サイクルが始まった原点といっていい活動なのです。
それは少し前まで「ただの昔の代掻き」でしかなかったのですが・・・
牛と田かきの取組みは、4年目を向かえ、今年も5月29日(日)に行われます。
今、この村では、様々な地域資源が体験企画として、町に住む人の訪問の受け皿となり、産業化し、住人が増えつつあります。
http://homepage3.nifty.com/kamiechigo/


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2005年05月24日

新潟県上越市 NPO法人かみえちご山里ファン倶楽部 中川幹太 1日目

はじめまして。
かみえちご山里ファン倶楽部の中川と申します。
今週は、新潟県上越市の西側の、とある村のお話です。

昭和30年まで9集落で形成される桑取村という村がありました。
水源の森から海まで、約13kmの長さの桑取川に沿って狭い谷が続いているのですが、その上流半分が桑取村でした。
昭和30年に直江津市に合併、昭和40年代に直江津市と高田市が合併して上越市に、さらに今年周辺の13町村が吸収合併される形で大きな上越市になったのですが、今でも村の人たちは自分たちの地域のことを「桑取」と呼ぶのです。
この先、どれだけ合併しようとも、何がどうなろうとも、自分たちの地域は「桑取」なのです。
村中が親戚のような、みんなが寄り添って生きている、そんな小さな村です。
冬は北から吹き付ける風が雪をそっとおいていき、村に残された老人に重労働を課します。



私がこの村にやってきたのは、4年前のことです。
兵庫の親元を離れて、3年ほど東京で環境NGOの活動をし、エネルギー問題の関係で柏崎に移住した私は、上越を訪れた際にこの村と出会ったのです。
都会育ちの私は、「ただの山」「ただの海」「ただの村」に見えるものから、たくさんの宝を発見するのです。
山の知恵、海山の幸、温厚な人々、千年の間この谷で暮らしてきた人々の喜びや悲しみの中から生み出されてきたたくさんの行事、目にするもの聞くもの全てがわたしのかちかんを変えていきました。
そんなことを一つ一つご紹介していきたいと思います。


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2005年05月22日

日光国立公園 小沢晴司 7日目

おはようございます。日記も最終日となりました。
右写真が6日目のブログで紹介した猛毒のシャグマアミガサタケです。今年5月初め、日光のきのこに精通した埼玉のA先生夫妻に同行して奥日光をたずね、生まれて初めてその異形と対面しました。
来々週、日光パークボランティアによる自然観察会があり、今日はその下見で私たちの事務所の日光地域担当レンジャーも、奥日光のきのこ発生地の近くまででかけていたと思います。

きのこは、私にとって気になる存在で、前任地のインドネシアでの業務にも役立ちました。
ジャワ島西部最大の熱帯林「ハリムン山」を舞台にしたJICAのプロジェクトに2年間派遣され、山村の経済裨益等を目的としたエコツーリズム活動推進に携わりました。
光るきのこを探している写真家と友人になり、ハリムンの森でその大規模な発生地を確認しました。「光るきのこ」は、この森への誘客を図るキャッチコピーのひとつとなりました。
この友人は、私に、ジャカルタ市内でダンスや合唱を楽しむ仲間も紹介してくれました。


ジャカルタに、在留邦人中心に結成された「B&B」という混声合唱団があります。15年の活動期間中様々な団員の入れ替わりがありましたが、帰国者の一部は引き続き「東京B&B」として都内で練習や演奏会を続けています。私もインドネシアに暮らした2年間お世話になり、帰国後もたまに顔をだします。
今年2月末、練習の後の料理店で、インドネシア駐在時からお世話になっていた先輩から思いがけない話をききました。「昨日旧友の出版祝賀会があった。与那国の援農活動を書いた本だ。」その言葉に、20年前の学生時代、試行錯誤していた思い出がよみがえりました。



黒潮洗う琉球列島最西端に与那国という島があります。同じ八重山群島の主島石垣島より台湾の方が近い亜熱帯の島です。私がそこを訪ねたのはサトウキビ刈りの援農隊参加のためでした。大学2年目の秋、留年が決まり、モラトリアムもあり、宗教に触れつつ思索と労働で過ごしたいとの思いから半ば放浪するようにたどりつきました。農家に住み込んでの3ヶ月の作業を通じ、島の自然と農的生活に魅了されました。(注:右写真は首里城からの那覇市です。)
援農隊は、北海道の農家を主に様々な人達で構成されていました。ベビーブーム世代のアウトロー的人生経験者も見受けられ、その一人から本州でも草刈十字軍という過酷な労働があると聞き、翌年、林業の勉強を兼ね活動舞台の富山に向いました。富山でリーダーとして十字軍の活動を指揮していたのが沢畑さんでした。
今年3月半ば、ローカルジャンクション主催の研究会で彼が講師として上京するのを聞き、私も丁度別用で上京する日程があり、会に同席したのが縁で「今週の私」を書かせていただくことになりました。
(この脈絡の紹介で、今日は話題を次々に跳躍させてしまいました。読みにくい点がありましたことお詫びいたします。)




皆様、今週一週間おつきあいくださりありがとうございました。機会がありましたら日光、足尾に是非おでかけくださいますよう。
お目にかかれる時を楽しみにしております。


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2005年05月21日

日光国立公園 小沢晴司 6日目

今日、事務所の自然再生担当レンジャーが会議出席で出かけた霞ヶ浦は、私も7年ほど前よく訪ねていました。
当時、つくば市内の国立環境研究所勤務時、頚椎症を患っていた私は、医者から病気の予防にダンスもよいかもしれぬと勧められ、通い始めた練習会場が霞ヶ浦の近くにありました。
職場には女性もいて同僚に内緒で出かけていたつもりが、皆私の行動を知っていたことを後で聞かされました。そして、知らないそぶりをしてくれていたことも。
先日、日曜の子供記者の取材では、レンジャーになってどの地が思い出深いかという質問もありました。そのときはうまく答えられなかったのですが、社会人18年の間で6箇所の国立公園と海外赴任地を含め10ヶ所の勤務地をまわり、いずれの地でも得がたい経験をすることができました、が、とりわけ、この研究所で過ごした3年の月日は、忘れることができません。



研究所構内には緑濃い庭があり、ほぼ毎昼食時、一緒に自然を散策しながら、様々な話題を交歓する同好有志のグループがありました。観察する対象は、構内の茂みの植物や虫、鳥、蛙、きのこと様々なものがありました。自然を愛でつつ、社会科学や人文科学、芸能文化などの話題に花を咲かせました。彼らには、その後、様々な仕事でアドバイスを得、助けていただきました。落ち込んだときには慰めてくれました。
研究所赴任直後の梅雨時前の昼休み、構内の木の上の白い花を一心不乱に眺めている女性がありました。背中から「アオダモの花です。きれいですね」と声をかけたのが、この友人達の輪に加わるきっかけだったのだと思います。後日談で、後ろから声をかけたので不審者のように思えたことを彼女が教えてくれました。上方の写真がアオダモの花です。背中から唐突に声をかけるのは失礼なことでありました。
右上の写真のアミガサタケは、とある研究者先生との散策時に、足元に見つけました。「これは食べられるものか」と聞かれました。アミガサタケはフランスでモリユという、料理の高級食材でもあり、あとでこっそり食べてみたかったので、「このグループは注意したほうがいいです。似た仲間で猛毒のきのこもあります。」と答えました。が、「この目の前のものは?毒きのことの違いは?」との先生の更問に、「これはおそらく安全なアミガサタケだと思います」と白状しました。
このとき、猛毒のきのこでイメージしていたのはシャグマアミガサタケだったのですが、つい先日奥日光で、初めて、会う機会がありました。


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2005年05月20日

日光国立公園 小沢晴司 5日目

おはようございます。昨日に続けて心惹かれる建物の風景をご紹介します。足尾銅山本山工場です。
16世紀半ばの天文年間に発見され、昭和48年2月の閉山まで400年間にわたり、総計約70万トンの銅を産出した足尾銅山の中心で、その後海外銅を用いていた工場での精錬も平成2年には中止されました。



これをご覧の皆様、お手元に10円玉がありましたら手にとっていただけますか。この硬貨をはじめ日本で使う銅の4割は南米チリ、2割はインドネシアから輸入しています。他にオーストラリア、パプアニューギニア、カナダなどがあり、日本では、もうほとんど銅を採っていません。

そのチリ共和国は世界最大級の銅産出国で、現在、JICAによるチリ共和国鉱害防止指導体制強化プロジェクトという国際協力活動が展開中です。日本の経験と技術蓄積を活用するとしており、それは、足尾をはじめとする、日本での鉱山事業の歴史を通じて生み出されたものにほかなりません。




類推すれば、日本最高の技術を集積し、国の産業を強力に発展させたパワーの源であった足尾は、その栄光の歴史の中で、国家政策と連動し、流域にある村や山を滅ぼしました。が、その過程で取り組まれた環境浄化に関する技術開発や、関連して整備された法制度等は、今、海外での日本の国際協力の舞台に生きている、といえるのかもしれません。
ちなみに今の日本の銅の使用量は年間約120万トンに達し、これは足尾で過去400年間に生産された銅の総量を上回ります。

絢爛と壮絶の歴史を秘めた景観と、隣接する美しい森の日光を組み合わせたツアーメニューは、まさに、我が国を代表するエコツーリズムプログラムとして、推奨されるべきものでありましょう。“足尾は、今に生きており、また、終わってはいない。”と言い得るのではないかと思います。




午後になり、那須高原へ調査と県庁担当者との打ち合わせにでかけていた施設担当と那須担当の3人が戻りました。国立公園のゴミ問題解決に昔から地元と作ってきた自然公園清掃協議会の総会に出席していた2人も戻りました。片品村へ尾瀬ラムサール登録説明に出張していた1人も夕方までに帰ってきました。彼は自然再生事業分野も担当していて、明日霞ヶ浦で行われる会議にでかけます。
現地の事務所とはいいながら基本的に土日は休みなのですが、様々な行事への対応もあり、奥日光担当の2人のレンジャーは自然観察会の監督で、明後日の日曜も、再来週の日曜も出勤になっています。(平日も忙しく代休はなかなかとれないのが実情です。)
私は、本日終日内勤で、各種電話への照会対応や事務所のスタッフとの打ち合わせ等で夕暮れをむかえました。
このブログをみた友人からメールがありました。友人は、昨年、赤城青年の家主催環境教育関東ミーティング実行委員会で一緒だった方です。行事で私は心と環境教育分科会を担当し、その中でもご案内したことで恐縮ですが、テレビ等で最近の事件をみるにつけ、大正期に社会に傷ついた少年少女のため私設感化院を開いた留岡幸助氏の言葉を思い出します。 「わが国の教育には二つの大なる欠陥がある。ひとつは人格教育の欠如であり、もうひとつは自然教育の欠如である。」
留岡幸助氏の思想・哲学の顕現の場である北海道家庭学校を、学生時代に訪ねたことがあります。そこは、冬季酷寒に包まれる北見の丘陵地に、牧場や畑とともに、カラマツの並木の奥に教会が佇む美しい環境の中にありました。


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2005年05月19日

日光国立公園 小沢晴司 4日目

今日は公園の保護や計画を担当するレンジャー2名と一緒に前橋市の群馬県庁に出かけました。11月のラムサール条約会議に、尾瀬も登録湿地としたい旨の説明のためです。
経路の途中日光清滝地区を通りますが、国道近くには古河電工の工場と瀟洒な事務所があります。約100年前古河鉱業が設けた日光電気精銅所が起源です。日光市内にある私の好きな建物の一つで、古河の企業城下町として発展した日光市が、50年前3万2千人超を数える繁栄を支えた工場です。事業規模縮小とともに市の人口も減り今は1万7千を割っています。
私事ながら高校まで東京下町の荒川区内で近くに旭電化の工場や零細工場がひしめく町に育ったためか、煙をあげて威容をほこる工場景観等には惹かれます。



午後前橋から戻りました。今日は別のレンジャー2人が、尾瀬ラムサール登録説明のため福島県庁へ出張しています。ほかに総務担当レンジャー1人が、山形県鳥海山麓にある猛禽類保護センターの運営総会準備のため1泊で出張中です。皆、車での移動ですが安全に戻りますよう。おかげで今日事務所での内勤者は普段の半分以下です。
夕方、福島出張組、新潟出張組、山形出張者皆戻ってきました。


もう一つ市内で好きな建物、JR日光駅です。2階にはダンスホールがあります。社交ダンスは健康によいというだけでなく、優れたコミュニケーション技術の一つでもあるような気がします。(我が身を振り返れば、姿勢、バランス、脂肪がハードルで、届かない世界かもしれませんが。)




駅の2階ホールは今は写真パネルなどが飾られています。ダンスブーム再来で、この空間の真価が発揮されるような、パーティ会場や練習場として復活する日が、いずれあるかどうかは、分かりません。


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2005年05月18日

日光国立公園 小沢晴司 3日目

おはようございます。
今日は早朝に奥日光担当レンジャー、シカ対策担当レンジャーと戦場ヶ原に向かいました。奥日光に住む自然公園指導員からシカの出没情報等があり、彼と合流するためです。環境省のレンジャーの人数は少ないのですが、地元の自然に精通しボランティアで活動する彼らの協力を得て、よりよく仕事を進めることができます。

私たちの事務所は日光市街地にあり出発時は曇天で肌寒さを感じましたが、いろは坂の途中から雲は消え太陽が顔をだしました。


戦場ヶ原湿原の植生保護と回復のため、その中へのシカの侵入を防ぐ約15kmの柵を環境省が作ったのが4年前の12月。その中を国道や河川等が貫通するため、柵は厳密には閉じていませんが、植生の回復効果はあがっているとの報告があります。

写真は、自然公園指導員とともに上述の柵内の湿原に出没するシカを観察しているところです。


丁度、日光では東照宮の春季例大祭がとりおこなわれている中で、今日は千人行列でした。事務所にも案内があり、行事への参加は、和やかな雰囲気の中で、地元の方々と情報交換をするよい機会にもなります。
座の中で、私たちの事務所長から日光市長へ、奥日光の湿原のラムサール条約湿地新規登録に向けての地元の協力に対してお礼を伝えました。今年11月ウガンダで第9回のラムサール条約締約国会議があり、その際、日本では9カ所以上の新規登録湿地を申請することとしています。奥日光の湿原は、すでに各種報道等で紹介されているとおりその候補地の一つで、現在登録申請に向けて地元と調整をしているところです。

今日は事務所の施設担当レンジャーのうち2人が磐梯朝日国立公園に出発しました。福島県裏磐梯と新潟県鷹巣温泉に環境省の土地があり、そこで計画している施設についての地元との調整のための出張で明日戻る予定です。遠方への出張の大半が自動車での移動なので、交通安全にはくれぐれも注意しなければ。


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2005年05月17日

日光国立公園 小沢晴司 2日目

おはようございます。改めてこのブログの履歴を拝見し、一昨日の三俣様の専門分野のご紹介を読んで20年前の学生時代を思い出しました。漠然と風景の勉強をしたいと考え林学科を選んだのですが、林政学講座の指導教官(石井寛博士:現林業経済学会長)が経済学分野の本も読むよう勧めてくださいました。その中に室田武氏の「エネルギーとエントロピーの経済学」もありました。今後、機会があります折、ご指導をいただければと思う次第です。5月第一週の松井様には、今年初め、インドネシアの銅山関連研究で貴重なご示唆をいただいておりました。その折はお世話になりありがとうございました。写真は2月に訪ねたジャワ島グヌンハリムンサラク国立公園の森です。


今日は、日光の事務所から3人のレンジャーが尾瀬に向かいました。尾瀬ヶ原を東西に横断する歩道上にかかる2つの橋がこの冬の雪で壊れたので、その架け替えのための調査です。先日15日までに群馬県が仮復旧をしていますので、写真の橋は今は渡れるよう補修がなされています。


燧ヶ岳です。写真はいずれも連休直前の時期のものです。

夕方になり3人が尾瀬から戻りました。日光の事務所には5人の施設担当レンジャーがいて、うち2人は別業務と兼任です。彼らは日光国立公園のほか磐梯朝日国立公園での施設計画・整備も担当します。
今年は私たちの業務に大きな変化がありました。昨年度までは、都道府県が国立公園内で施設整備を行うとき、補助金を交付する制度があったのですが、三位一体改革に関連しこれが廃止されたことです。
今後国立公園の整備や管理にあたり、補助金によらない形での、地域行政主体である都道府県や地元市町村とよいパートナーシップを作り、充実させていくことが大切になると思います。

私たちの事務所は前述の2つの国立公園内に3ヶ所の最前線の駐在事務所をおく他、新潟市内にある野生生物分野等を担当する支所、鳥海山麓の猛禽類保護センターを所轄します。管内のスタッフは総勢で25人、このような環境省の地域自然保護事務所が北海道から沖縄まで全国に11あります。
今年度は、もう一つ私たちの組織に大きな変更があります。10月にこれらの自然保護事務所が、廃棄物や地球温暖化等を担当する地方環境対策調査官事務所(全国に9つ)と整理統合され、全国で7つの地方環境事務所になるというものです。日光の事務所にある機能の大半は、10月以降さいたま市におかれる事務所に移ることになります。


今日、私の方は、といえば、デスクワークの合間をぬって日光市内外の関係機関をまわりました。昨日考えた日光の風景を勉強する会へのお誘いです。いずれの機関の担当者も好意的に受け止め、協力してくださるとおっしゃってくださいました。
これまで、各機関の先人は、当地の風景と調和させ、あるいは風景に特色がでるよう、施設を計画する際に様々な工夫をしてきたと思います。
それらを再発見し、未来の日光の風景作りにつながるアイデアなどを、地元の方から教えていただける機会の一つができればと思っています。


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2005年05月16日

栃木県日光市 小沢晴司 1日目

はじめまして。現在、日光市内にあります環境省北関東地区自然保護事務所で仕事をしている小沢と申します。今週は日光国立公園からレポートをお届けいたします。よろしくお願いいたします。


昨日、某新聞子供記者取材班の取材があり、小沢さんはレンジャーになって何が目標なのかという質問がありました。
日本で「レンジャー」とは、環境省の現地事務所で自然保護分野の業務に携わる、主に技術系職員についての通称となっていますが、アメリカやカナダのような森林警察のようなイメージの仕事とは少し違っています。
先の問いに私は、広大な森林や野生動物の保護というより、どちらかといえば、住む場所が美しいふるさとであるようであればと答えました。
国立公園の中には様々な集落があります。美しい町並み、心和む佇まいや風景はどのように作られるのでしょう。自然公園法に基づく基準で、それに反するものを正していくという手法だけに頼るのでは、気持ちのよい町作りの手段としては、反感を伴い逆効果になる場合もあります。その町に住む人たちが協力して美しい町を作りたいと願い、関係する機関が同調するようなステップが必要なのだと思います。
毎週月曜朝は事務所の定例会です。現在14名のレンジャーが日光の事務所にいます。昨日の今日ではありませんが、早速、本日の会議で、日光の風景について、関係する機関も誘って勉強する機会を作ることを提案しました。上司の了解もあり、これから市内のいろいろな機関に呼びかけてみようと思います。


そろそろ本日も終わりに近い時間です。今日はアクティブ・レンジャー募集について所内で打ち合わせがありました。
環境省のレンジャーは全国28の国立公園管理を含め地区事務所全体で230名程度、アメリカのイエローストーン国立公園一つで100人以上という数に比べ少ないため、日本では職員が屋内での事務作業に追われ、現地でその姿を見かけることがほとんどないといわれます。
このため、6月から、現場の自然の中で活躍できる非常勤の職員としてアクティブ・レンジャーを募集していました。全国で60人の強力な応援団、私たちの事務所管内でも4人が採用予定で、先週までに面接を終えたところです。
アクティブ・レンジャーと一緒にすぐ活動を始められるよう、今週は私もできるだけ現地の自然の中にでかけて、皆様へもレポートをお届けできるようにしたいと思います。では、おやすみなさい。


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2005年05月13日

神戸市 三俣 5日目

今日は、ちょっと私の研究紹介を

私は環境経済学を勉強しています、と初日に簡単な自己紹介をしたきりでどんな研究をしているのかにはまったく触れていませんでした。私はこれまで主に日本の入会林野と呼ばれる「地域みんなの森」に関する調査を続けてきました。その研究方法は、経済学徒らしく数値データを用いて統計的に、というわけでなく森林の利用・管理を続ける人たちに一つ一つ教えてもらう聞き取り調査が主体です。研究の中身を書き出すととても日記で収まらないので『入会林野とコモンズ』(日本評論社、2004年)をみていただけるとうれしいです。共著者の同志社大学の室田武さんは僕の大学院時代の先生で、僕が研究者になるきっかけを与えてくれました。それからローカルジャンクション21でもおなじみの農文協『現代農業』。2005年2月増刊「小さなむらの‘希望’を旅する」にも、どうして山の研究を始め、なぜ入会(いりあい)という一見古めかしい制度に資源・環境問題を考えるヒントを求めるようになったのかを書かせてもらっています。よろしければごらんください。

さて、今日は二年生ゼミでした。9人中6名が昨年の1年生ゼミ(一昨日の疎水の写真の学生たち)からあがってきた学生で、今日は昨年一年生ゼミ時のレポートをひとつの冊子にする作業を昼からした、その後のゼミだったのでちょっとお疲れモード。今年、2回生ゼミでは専修大学経済学部の泉ゼミ(泉留維氏は、地域通貨研究者で全国を駆け回っている人です。彼とは同志社大学大学院修士時代以来の友人)との合同ゼミを秋にする予定で、今学生たちは皆でそのテーマに関して討論中。
今日もキャンパスに一日。平凡な大学教員の一日で面白くない日記ですいませんでした。







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2005年05月12日

神戸市 三俣 4日目

2日目に書いた開発で削られた山
今日は、このページの書き込みのためにカメラを持って大学にでかけました。右のこの写真。わが家のまん前です。小さいひらたい山がずっと続いていたのですが、昨年末より猛烈な地響きとともにあっという間に山が削り取られ向こうが丸見え。新しくあちら側にできる団地とこちら駅側をつがげるためだとか・・・おかげでうちの窓からそれまでみることのできなかった明石海峡大橋が良く見えます。たしかに橋のイルミネーションは夜とてもきれいですが、ごっそり削られた山を見ると気持ちは複雑。まさか家のまん前がこんなことになるとは。「こどもに‘ものを大事にしなさい’といって育てられないな」と、妻が一言。この開発、付近の住民には何も知らされていない・・・・どうなってるのだろう?



通勤途中の散歩道:人気が少なくさみしげな池
自宅と研究室があまりに近い(キャンパス内官舎に住んでいる)私は、健康のことを考えて、キャンパスをぐるっと一周、約20分かけて研究室に入ることにしています。その間、沢や川などはいっさいありません。用水路のような細い溝が切られていますが、雨の日以外は水は流れていません。
この池は、家から10分くらい歩いたところにある池です。なんだ、水辺あるじゃない、といわれるとその通りなんですが、この水辺にアクセスする人はほとんどいません。昨年12月からはじめた20分散歩通勤は、フィールド調査に出ているとき以外、ほぼ毎日、がんばって続けています。でも人が水辺まで降りているのを見たのは今まで2回だけ。「水辺に降りてはいけません」という看板こそありませんが、柵が周囲に張り巡らされ、水辺と岸の間には腰を下ろせる緩衝地のような場もなく、近づいていこうという気にならない状態です。
でも、この池周辺には桜の木が植わっていて、春にはとてもきれいでした。せっかくそんなきれいな桜の時期もお花見を楽しんでくれる人影もなくさみしいかんじがしました。


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2005年05月11日

神戸市 三俣 3日目

学生たちの発想が芽吹きだすとき

特に連休明けのこの時期、学生がよく私の研究室に来ます。今日も幾人かたずねてきました。何をしにくるのかというと1年かけて調べていくテーマを私と話をしながら一緒に決めるためです。もちろんそのように相談に来るのは私のゼミ生(1回生・2回生)です。
私のゼミでは、自分の関心あることについて調べてきたことを皆の前で話せる力をつけてもらうために一人1テーマ、今の時期に決定してもらうのです。そうしてテーマが決まったらゼミ発表(一人につき年に2,3回)の日まで懸命に調べてもらうのです。

一応、私が「エコロジー経済学」という講義をもっているので、基本的には「環境問題に関係のあるテーマ」ということにしていますが、かならずしもそれに縛られる必要はない、としています。そうしたところ昨年度、「タバコとお酒の歴史」というテーマにした学生がいました。その学生は、「タバコとお酒は体に悪く、環境に悪い。徹底してその廃絶を!」という理由でそのテーマを立てたのではありません。その逆で「たまらなく好きだからその魅力をゼミの皆にしらしめるんだ!」といって年間そのテーマで研究し続けました。緊張のゼミ発表を終えた彼の吹かすタバコも実にうまそうだった。もちろんがんばって調べていたので内容も面白かったですが。

昨日、相談に来たフレッシュな1年生も面白い。
彼女の通っていた明石のとある高校は新幹線沿線にあるため、窓をまともに開けられなかった。英語のヒアリングのときなどは聞き取れずいらいらした。これはごく単純に理解すると騒音の問題。でもその学生はいやまてよ、「環境問題」といわれたからそれを
まっ先に思い浮かべたけれど、自分の育った近所はさまざまな開発にさらされた挙句、立ち退きなどで中学の友達はどこにいったかもわからない・・・そうやって記憶の糸を辿ってよくよく考えていくと地域全体の、それも数十年というスパンでの問題なんや!
となにやらわかった様子で、テーマを自分の育った地域史に設定しました。

こんなふうにして彼・彼女の生い立ちから聞かせてもらい、その中で、不思議だな?どうなってんだろう?と思うことがあればその話題に立ち止まって、更に深く聞き、なんとか進みだすテーマまでたどりつく。それが今の所、わたし流のやり方。時間はかかりますが、学生が辿ってきた道のりはそれぞれにやはり違っていて面白いし、なにより突拍子もない発想をするのでこちらも相当刺激をもらうわけです。時間をかければ、一年をかけてやり通せるような彼・彼女らの眠っている問題意識も発掘できる可能性が高まります。

よく最近の大学生は、考える力がない、想像力がないなどといわれますが、私は頭ごなしにそんなふうに言うつもりはありません。確かに礼儀作法や知っている語彙数などは昔の学生に比べて劣るかもしれません。でもこの時代に生きる18,19歳だからこそ持っている柔軟な発想や想像力がやはり彼・彼女らにはあります。ある意味で「こんないびつな時代」に育つことを余儀なくされた分だけ、どこか図太いし、うまく「かわす技」も持っていたりする・・・したたかだし、それでいて妙に子供っぽいところもある。未来の経済社会・環境問題の行く末は、大学に入ってきたばかりのこの人たちの潜在能力をどう開花させられるか次第。
こちらとしては若く新しい脳みそに触発されつつ、その「眠れる力」をいかに引き出せるかという挑戦の日々。その大切さが研究活動と同等、否、それ以上に大切に思える「萌ゆる新緑」の日々です。






昨年度(平成16年度) 三俣1回生基礎ゼミの写真です。

この写真は、京都の水事情の歴史と現在(琵琶湖疏水の光と影)をたずね、
琵琶湖疏水を皆で歩入たときのものです。企画はすべてゼミ生。案内の中
心は、一昨年まで京都にいた私が。

南禅寺周辺、疎水記念館につづき、ゼミ生が事前に調べてきた景観講座
(京大教授による市民講座)にも参加。

ゼミ幹・ゼミレポート編集委員が中心となり、学年末レポート集の冊子では
このときの記事も掲載。




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2005年05月10日

神戸市三俣 2日目

こどもの日にやってきた沢ガニ!

ずいぶん久しぶりに家族で近くのスーパーに買い物に出たときのこと、
食品売り場の一角で、「さわガニ2匹プレゼント」というちいさなのぼりが
出ていてた。桶の中にはたくさんの沢ガニが元気よく歩きまわっていた。
ちかくにいた店員さんが「四万十川からやってきたカニさんあげるよ。子
供の日のプレゼント!」といって一番元気そうな2匹を選んでビニール袋
に入れてくれた。店員さんから沢ガニをもらったうちの娘のすれみは4歳。
この4月から幼稚園年中クラスに通い始めたばかりである。

沢ガニを見て「子どものカニさんだね。ちょっきん、ちょっきん、かわいい
ね」とわらった。そのとき、私は昨年、北海道別海町での調査のお土産に
と大枚をはたいでカニを買って帰ったことをふと思いだした。
すみれは、あのときに食べた毛カニの大きさのカニをどうも大人のカニだと
おもっている。たしかに、うちの近所には、澤はもとより小川すら流れてい
ない。昨年まで、私たち家族は、京都市右京は桂川の直ぐそば、松尾とい
うところにいた。すみれはそこで生まれ育った。川も近くにあったし、山はと
いえば、立派な愛宕さんがおがめる。もちろん直ぐそばには嵐山もある。

ここ、神戸市西区学園都市というところへ越してきて1年あまり。
勤務先大学のキャンパス内にある教員住宅にいられることは、私の研究
生活にとってはこの上なく便利で快適である。しかし、近づいて一息つける
ような水辺が一切ないことに越してしばらくして気がついた。その寂しさ
は実に大きい。それにこのあたり一帯は無理やり開発したとおぼしき山の
切りくずしもひときわ目につく。娘が沢ガニを「子供のカニさん」だと思うのも
仕方がない環境なのかもしれない。

娘をつれて妻がカニさん用の虫かごを買ってきたのは昨日。新しい格好い
いその虫かごの中で、沢カニは2匹仲良く、すみれに別れを告げてこの世
を去った。すみれも虫かごの中の息絶えたカニに向かって、
「遊んでくれてありがとう!」
と元気よくいった。傍らには、すみれがここ二・三日でかけるようになったす
こし滑稽なカニの絵が数枚ちらばっていた。
清流あふれる四万十川からつれてこられ、こんな狭い虫かごにいれられて
しまったカニ。できれば近くの川にはなしてやりたかった。
でも小川すらないこの環境では、カニにとっても虫かごの中が唯一安全な
場所だったかもしれない。

美しい水辺を暮らしの中に取り戻すこと、それは子どもの心身を育むだけで
なく、疲れた大人のやんだそれをも修復する第一条件なのかもしれない、そ
んなことを「子どものカニさん」とむすめに教わった一日だった。

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一日遅れの内容の日記でした。むかしから日記を翌日に書くという悪弊があ
り。ちなみに食あたりと思われる症状からは無事復活。


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2005年05月09日

兵庫県神戸市 三俣 1日目

はじめまして。兵庫県神戸市の三俣学(みつまた・がく)といいます。

「みつまた」、という苗字もめずらしいですが、「がく」というのはもっと
変わっています。「まなぶ」と読むのが普通ですから。
哲学者の親父が、一番上の姉に真理(まり)、兄貴に哲(てつ)
と命名し、その時点で既に私の名前は学(がく)と決定していたそう
です。
姉の真理の場合、わざわざ「しんり」ではなく「まり」と世間一般で通
用するように読みます。女の子だからという配慮があったのでしょう
か?僕の場合は「まなぶ」とは読ませず、名前としては読み慣れない
「がく」のままで・・・・

親父は、私たち兄弟に「真理を探究し、智恵を愛する人になってもらい
たい」と命名理由を話したことがありましたが、その結果の悲劇が兄貴
と私。
「哲学」一語として完結しているものを兄貴のほうに「哲」と、僕のほうに
「学」と分けてしまったので、兄貴も僕も絶えず不完全で情緒不安定(兄ち
ゃん大変失礼!)。
親父は講義や式典の場でのネタにつかっていますが、「哲と学の小学校の
テストの点数はいつも両方をたすとほぼ100点満点になる」という状態・・・・。
これが単なるネタではなくほぼ事実であり、世間一般の家庭であれば笑い
事ではない! しかし三俣家ではあわせて100点ならまあよかろう、という
ことになってきた・・・。どうも変わった家庭環境で育ったようです、私は。

そんな兄貴は山形の地で物理学を、僕は神戸で環境経済学を学び続け
ています。

兄弟三人はそれぞれ家庭を持ち、それぞれに多忙になってきて年に一度も
顔を合わせることができなくなってきましたが、去る連休に、数年ぶりに家族
全員で顔を合わせることができました。姉も兄もいい年のおじさん、おばさん
になっていて、かくいう私も一人娘の父。両親はもう白髪のいいじいちゃん、
ばあちゃんに・・・。

それぞれ家族を持つとわかるのが、「食」環境の大切さ。
ひさびさに再会した兄弟で盛り上がった話題の一つに、おいしいもの、健康
的な食べ物のはなし・・・・
といいつつ、現在これを書いている私は食中毒の疑いあり。
一昨日、京都のとあるお店で半生の焼き鳥を食べ、その晩に発熱と下痢。
そこで、タイミング悪くも今日から「今週の私」。
1日目 おなか痛でうごけませんでした
2日目 医者に行きました。
3日目 薬があまり効きません。
4日目 徐々に回復の兆し
5日目 ほぼ回復
6日目 回復、今日で終わりです。ごきげんよう。
というむなしい療養記録にならないよう早く直します。







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2005年05月07日

東京都豊島区 松井和久 7日目 東京へ戻る

わずか4泊5日のインドネシア行きでしたが、相変わらず朝から晩までバタバタと動き回っていたような気がします。でも、短期間であれ、インドネシアの空気を吸って、少しだけ新たな気分で日本での生活に戻れそうな気がします。

振り返ってみれば、昨年6月に、熊本日日新聞社から原田正純著「水俣病」(岩波新書、1972年)の英語版が出版されたのが始まりでした。早速入手し、それを8月に試しにマカッサルの仲間たち(地元NGOのMKS[Media Kajian Sulawesi])のところへ持っていったところ、「是非インドネシア語に翻訳したい」と強く懇願されました。折りしも、今回紹介した北スラウェシ州ブヤット湾で「水俣病が発生した」という新聞報道が世論を騒がせていた頃でした。それから約半年で翻訳は終わり、日本での著者、出版社、写真家などとの交渉を終え、ようやく出版となりました。彼らとしては、水俣病の有無よりも、水俣病というものがいかなるものかをきちんと知ってもらいたい、というのが出版の意図でした。

インドネシアの人々は、病気は薬を飲めばすぐ治ると信じている一面があります。出版記念セミナーでも「水俣病はどうすれば治るのか」「予防はどうすればよいのか」という質問が出ました。原田氏からの「治ることはない」「(有機水銀の科学的有用性は否定しないが)有機水銀を排出しないこと」という答えは、セミナー参加者に重く受けとめられたようです。植民地時代から行政が住民を監視・敵視してきた長い歴史を経て、ようやく行政と住民とがコミュニケーションをとらないわけにはいかない時代となってきた今日、もはや行政がブヤット湾のような問題を隠蔽することは困難であるにもかかわらず、行政も住民もなかなか歩み寄れない状況が続いています。

しかし、今回の「水俣から何を学ぶか」という私たちの問いは、翻って「水俣から我々は何を学んできたのか」という問いになって自身へ返ってきたようにも思えます。来年は水俣病が正式に「発見」されてから50年。地元学を生み出してきた背景にある、様々な苦しみや葛藤の水俣50年の歴史の重みを踏まえながら、最も重要な何かを国内外の様々な人々に伝えていく必要を痛切に感じた1週間でした。

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今週1週間、私のつたない「日記」にお付き合いいただきありがとうございました。またどこかで皆様にお世話になることと思います。いろいろとご指導いただければ幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。



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2005年05月06日

東京都豊島区 松井和久 6日目 帰国を前に

5月6日の午前中、ジャカルタ市内のメルシー(MER−C)というイスラーム系緊急医療NGOにおいて、「水俣病」インドネシア語版出版を記念した原田氏の講演およびディスカッションが行なわれました。

参加者はわずかでしたが、彼らのほとんどはブヤット湾に環境汚染があるかどうか、それが水俣病かどうかという関心で集まっていました。しかし司会者が原田氏の講演を通じて水俣の経験を学ぶことに集中させたため、アジテーションのない静かな会合となりました。

大事なことは症状が出ている患者をケアすることで、原因究明はその後に時間をかけてじっくりやればよい、原因が究明されるまで放置された水俣の経験を繰り返してはならない、という原田氏のメッセージが共感を持って受け止められていました。

このメルシーのオフィスで面白かったのが、この写真にあるメルシーの旗です。赤い月の上部に描かれたアジア大洋州、その真ん中にくっきりとインドネシアが描かれているのですが、あれれ、日本や朝鮮半島が見当たらない・・・のです。



北スラウェシ州のマナドでは「水俣病」インドネシア語版は「売り切れ」とのことでしたが、首都ジャカルタの本屋ではどうか、見てきました。写真のように、新刊書のコーナーに平積みになって売られていました。思わず、通りかかった人に宣伝してしまいたくなりました。「水俣病」と聞いただけで、中身を読みもせずに「ブヤット湾の汚染を水俣病と決め付けるための危険な書物」というレッテルが貼られないことを祈るばかりです。


さて、本当に短かったインドネシア滞在もわずかとなり、ジャカルタ国際空港で出国審査を終えてぶらぶらしていると、ジルバブをかぶって同じような服装の若い女の子たちの集団がぞろぞろ歩いているのに出会いました。聞くと、ジャワ島の田舎から出てきたこの子たちは、これからクウェートへ出稼ぎに行くとのことでした。

ふと昔、ジャカルタで下宿していたときのお手伝いの女の子がサウジアラビアへ家政婦として出稼ぎに行き、しばらくして、主人のいない隙を見計らったのでしょうか、下宿の大家に泣きながら「サウジに来るんじゃなかった」と国際電話をかけてきたのを思い出しました。当時彼女は16歳、初めて下宿にやってきていきなり私のズボンにアイロンをかけて穴をあけてくれたのですが、つらい日々に耐えられなかったのかもしれません。一体彼女は今どこでどうしているのでしょうか。

そんな彼女とここにいる女の子たちがダブって見えました。「仕事がうまくいきますように」「よい雇用主に恵まれますように」と声をかけるたびに「アーミン」と祈る彼女ら。幸せに帰ってきて欲しいと願わずにいられませんでした。


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東京都豊島区 松井和久 5日目 再びジャカルタへ

マカッサルでの予定も無事に終了し、5日昼の便でジャカルタへ発ちました。マカッサルの滞在はわずか1日半と短く、あれも食べてない、これも買ってない、あの人に会っていない、と、とても心残りでしたが、また8月に来るということで、今回は我慢です。でもバタバタと慌しく過ぎた1日半でした。

ジャカルタに着き、空港から街中へ入ると、乾季とは思えない激しい雨に出会いました。目抜き通りのスディルマン通りは所々冠水し、車は水を跳ね上げながら進んでいきます。しかし、ホテルに着く頃には雨は上がって、少し手前の大雨がうそのようでした。ジャカルタではこうした局地的な大雨がたびたび起こります。


原田氏にお付き合いして、少しの時間、みやげ物売り場をのぞきに行ってきました。ジャカルタ・サリナデパートのみやげ物売り場は、行く度に新たな発見があり、面白いところです。まずは定番のこれ。イスラーム教徒が使う礼拝用のカーペットですが、方位計が縫い付けられていて、どこへ行っても正しくメッカのほうを向いてお祈りできる代物です。


今回の掘り出し物は、こちらの箸置き付き茶碗です。茶碗の上部に穴が開いており、そこに箸の先を突き刺しておけます。この茶碗は、木材でできていますが、バナナの木の幹の皮を木材に貼り付けてあり、ジャワ島中部のジョグジャカルタで生産されたものとのことでした。これが日本で受けるかどうかは分かりませんが、その発想に新鮮さを感じました。これからも面白いみやげ物が様々なアイディアと工夫を凝らして現れてくることを期待しています。


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2005年05月04日

東京都豊島区 松井和久 4日目 水俣から学ぶ

いよいよ今回のインドネシア出張のメイン・イベント、原田正純著「水俣病」(岩波新書)インドネシア語版の出版記念セミナーが、マカッサル市内の国立ハサヌディン大学で開催されました。開始時刻の午前9時にはまだ数人程度しか来ていませんでしたが、9時半頃から人が集まりだし、結局、200人を超える出席者で盛会となりました。出席者の多くは学生やNGOなどの若い世代が多かったのが印象的でした。




主催者のMKS、AMDAインドネシア、ハサヌディン大学医学部などの挨拶に続いて、原著者である熊本学園大学の原田正純教授が、昨晩、私が深夜までかかってインドネシア語訳をつけたプレゼンテーション資料を使い、「水俣からのメッセージ」と題して講演を行いました。原田氏は手馴れた様子で講演されていましたが、対外へ排出されやすい無機水銀よりもタンパク質と結びついて体内に蓄積されやすい有機水銀が被害を深刻にしたこと、胎盤が有機水銀を通さないと医学的に信じ込まれていたため胎盤性水俣病の発見が遅れてしまったこと、などの話で、途中で何度も心に迫る場面があり、出席者の多くが涙腺を潤ませるような光景が幾度も見られました。




原田氏は、水俣病は有機水銀中毒という比較的シンプルな原因だったが、今後の公害病は様々な原因要素が交じり合う複合的な形で現れるとし、原因究明は困難を極めるであろうことを指摘すると同時に、水俣病を含む公害病に対して医学的なアプローチのみでは限界があり、その病気が発生した社会の貧困やその後のプロセスの中で破壊されていくコミュニティに眼を向けた「地域」を捉えるアプローチなど様々なアプローチを総合してとっていくことが必要であることを強調していました。「水俣病かどうか」ということを医学的究明しただけでは何も解決したことにはならない、というメッセージでした。

インドネシア・スラウェシ島では、北スラウェシ州のブヤット湾で何らかの重金属汚染と見られる状況が起こっており、湾に流れる川の上流にある米系金鉱会社ニューモント社の現地子会社が批判の矢面に立たされています。この会社が水銀やヒ素などを垂れ流していた(あるいは空中へ放出していた)と報道され、現在、政府はニューモント社を環境汚染を理由に告訴しています。当初は「水俣病ではないか」という見方さえありました。しかし、ニューモント社からロイヤリティなど様々な収入を得られる地方政府などは目をつぶり、逆にニューモント社を敵視する運動をやめるようにとの様々な圧力がかけられ、当初住民を支援していた多数のNGOも手を引いていきました。「ブヤット湾に環境汚染があるかないか」という問題に終始して、地域の利権と絡んで高度に政治化してしまい、結局、移転を望む現地住民が行政から放置されているのが現状です。

このブヤット湾のある北スラウェシ州の州都マナドの本屋では、「水俣病」インドネシア語版が発売されて数日のうちに売れ切れてしまったとのことです。市民の関心が高いのか、それとも反ニューモントの世論形成に使われることを恐れたグループが買い占めたのか、どうも後者の可能性が高いとセミナーに参加した現地NGOは語っていました。この本の出版を契機として、環境問題で「汚染があったかどうか」「外資系企業はけしからん」といったレベルの議論を超え、住民の現状を様々な角度から科学的に調査し議論していくように、そして住民本位の対策を講じられるように、インドネシアでもなっていって欲しいと願っています。



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2005年05月03日

東京都豊島区 松井和久 第3日目 ジャカルタからマカッサルへ

遅めの朝食をゆっくりとって、まず、頼んでおいたマカッサル行きの航空チケットを取りに旅行代理店へ行きました。チケットはすでに用意してあり、難なくゲット。午後1時に到着する同行の原田正純氏を出迎えるため、ジャカルタ国際空港へ向かいました。初対面だったものの、無事に原田氏と会うことができ、午後4時発が午後6時発に変更になったガルーダ便を待つため、空港ホテルの1室を借りて休みました。

何の問題もなく、午後9時過ぎにマカッサルに到着。空港にはメディア・スラウェシのメンバーである島上さん、イッチャンさん、ニョマンさんの3人が迎えに来てくれました。この写真がその3人です。ホテルに着いてから、明日の「水俣病」インドネシア語版出版記念セミナーの段取りを話し合いました。原田氏持参のプレゼン用CDの一部をインドネシア語に直すことになり、結局夜中の2時過ぎまでかかって何とか終わらせました。浦嶋さんと行った昨年1月のJICAの仕事のときといい、行事の前には必ず何か夜なべ仕事が待っている、という状態に変化はなさそうです。

というわけで、あまり面白い話題のなかった、ジャカルタからマカッサルへの移動日でした。



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2005年05月02日

東京都豊島区 松井和久 2日目 ジャカルタに到着

昨日は箱根でしたが、今日からインドネシアへ出かけています。インドネシア・マカッサルの友人たちと作ったメディア・スラウェシ(Media Kajian Sulawesi: MKS)というNGOが、岩波新書の「水俣病」(1972年出版)のインドネシア語版を出版したのですが、4日に行われるその出版記念セミナーに原著者の原田正純氏と出席するためです。このインドネシア語版は、2004年6月に熊本日日新聞社から出版された英語版を基にしています。

成田から乗った毎度おなじみのジャカルタ行きJAL便は、写真のようにガラガラで、乗客は30人程度でした。この路線の乗客の大半は政府関係者やビジネスマンで、GWの中間に当たる5月2日は利用客がほとんどいないということのようです。ちなみに夕方に成田を出るJALのバリ島行きの便は満席だとか。1998年5月にジャカルタで暴動が起こったときは、さすがに、ジャカルタ行きは数人しか乗客がいなかった、ということもあったそうです。


このところ、ジャカルタに着いて最初の夕食は、あんかけクエティアウ(一見きしめんのようなコメの平打ち麺)となることが多いのですが、今回もやはり食べたくなって、アジア経済研究所のジャカルタ駐在の友人を誘って、ハヤム・ウルック通りにある「メダン福建麺食堂」へ行ってしまいました。昼は福建麺を出すのですが、夜はあんかけクエティアウ、炒めクエティアウ、汁クエティアウの3種類しかメニューがありません。もっとも、食堂のどこにもメニューが掲げられていません。ともかく地元華人の間ではよく知られた食堂です

毎度のことですが、牛肉以外に臓物や軟骨も入るあんかけクエティアウにチリソースをかけて食べると、「さあこれからインドネシアだ」と気分が高揚してきます。



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2005年05月01日

東京都豊島区 松井和久 1日目 箱根に行って

皆さん、はじめまして。今回初めて「今週の私」に登場する松井和久と申します。日頃は日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所というところで、インドネシアの政治経済を調査研究しております。

一昨年から勉強し始めた「地元学」を通じてLJ21のお二人と懇意になり、インドネシアや開発途上世界の地域づくりと日本の地域づくりとの学びあいの関係が作れないだろうかと考え始めています。今後とも皆様からいろいろと学ばせていただきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

詳しい自己紹介は別の機会に譲るとしまして、人並みにゴールデンウィークと称して、家族で箱根へ行ってきました。箱根に行くのは中学校時代の修学旅行に続いて二度目。あのときは富士五湖から仙石原に出て、海賊船に乗って元箱根に着き、東京へという、地方中学生の箱根素通り旅行で、何も見ていません。もっとも今回も「箱根にうまいものなし」と聞いていたので、全く期待せずに行ってみました。


甘酒茶屋から元箱根まで東海道旧街道を歩いてみました。その一部は写真のような石畳の道でした。江戸幕府は1680年に石畳を敷設したのですが、第14代将軍徳川家茂と政略結婚することになった和宮が1863年に京から江戸へ降娘(こんな言葉があるのですね!)される際に、東海道に石畳を全面改修したということです。途中「イノシシに注意」の立て札がありましたが、出会ったのは赤いヘビ君と虫たちでした。



大涌谷にも行きましたが、面白かったのは「黒タマゴ」です。これは玉子茶屋という業者がボコボコいって噴出している硫黄泉につけたゆで卵で色が真っ黒、6個で500円でした。この玉子茶屋、大涌谷散策路が閉まった後も黒タマゴを買える出店を下に設け、出店から玉子茶屋へ原料の玉子を、玉子茶屋から出店へ茹で上がった黒タマゴを「ミニロープウェー」で運んでいました。

この卵、どこの卵なのでしょうか。黒タマゴは「食べると7年長生きする」といわれているそうですが、温泉の成分が溶け込んでということならふむふむ、でも卵がいい卵だったらより効果が大きいのでしょうか。ちなみに、ロープウェーの早雲山駅ではヨード卵「光」の黒タマゴが売られていました・・・。そうそう、黒タマゴの「温玉」も売られていましたが、昔はそんなのなかったですよね。




今回行ったのは、箱根寄木細工、旧東海道、箱根関所、芦ノ湖、大涌谷などでした。実は、そのほとんどが、娘の小学校の社会の教科書の「私たちの県とまちづくり:箱根町のまちづくり」という単元の内容例として取り上げられていたことに、帰宅してから初めて気づきました。お会いした箱根寄木細工の工芸士・本間昇さんも教科書に載っていました(彼の自著を買いましたが、とても面白いです)。

いまどきの小学校の教科書、なかなかのものです。今回の箱根行きは、もしかして、娘の「地元学」事始、となったのでしょうか。娘も、ごろごろ寝転がりながら、うだうだと箱根のことを日記に書いている様子でした。




posted by LJ21 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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