2004年07月08日

熊本県水俣市袋 遠藤邦夫さん 三日目

7月7日 曇り時々晴れそして雨
 今日はスタッフが交代でおこなっている水俣病歴史考証館の当番の日だ。朝一で考証館の掃除をして、天窓を開けておく。なにしろ考証館は貧乏な財団が運営しているものだから、空調がない。あるのは扇風機とうちわだけ。だから冬は寒いし夏は暑い。ほとんど我慢大会のようなものだ。それでも訪れて暮れる見学者がおり、もうしわけないと思いながらも、そう思うモノだからつい熱が入って説明が長時間となり、悪循環(?)となってしまう。
 昼からJICAの人たちがやってきた。30分しかないので、説明はまず「1961年、坪谷の一軒の漁師の庭先」写真パネル。庭先で獲ってきた魚をみんなで分けているが、男の姿がそこにはない。大黒柱だった漁師たちは、すでに水俣病にかかって病院やすでに鬼籍に入っている。この写真を私は気に入っているが、とても残酷な写真といえるだろう。1959年には熊本大学医学部が、水俣病の原因はチッソ工場の排水に含まれるメチル水銀が魚介類を汚染して、それを食べた人がかかる病気、であることを解明している。しかしながらチッソも監督していた国も何らの対策を施さないので、人々は魚を食べ続け水俣病にかかっていった。
 だから裁判所が何と言おうが、国がのらりくらりと責任逃れをしようが、水俣病に関してチッソと国が適切な対応をしなかったことは明白なことだ。この時期に国の責任がないと主張することは、国はなかったというに等しい。いかん水俣病の話になると盛り上がってしまう。日記だっだよね。
 写真は水俣病歴史考証館に陳列されている猫実験の小屋




7月7日は、水俣病センター相思社初代理事長田上義春さんの命日だった。夜、田上家を訪れお焼香をさせてもらう。その後義春さんの思い出話に花が咲いた。奥さんの京子さんと娘さんのゆりさんが代わる代わるに思い出を語ってくれた。
 水俣病の補償金の話は家では一切しなかったこと。私が聞いた限りではあるが、補償金のことを話してくれた患者はほとんどいない。「田舎ではなあ、そん金をどぎゃんして使うかが問題たい。みんな見とっでなあ」。被害補償なわけだから、それを本人がどう使おうと勝手と思うのは近代人である。見られているということは、それは注意しなければいけないことだというのが、田舎の暮らしの不文律だ。
 その農園には飲料水がなく、京子さんや子供たちが運んでいた。義春さんに言わせると「水の大事さを子どもたちにも教えるためだ」と、このとき母と娘は声をそろえて「でも義春さんはいっちょん運ばなかった」と。
 義春さんは夢が大きかった人だったと、京子さんが語ってきれた。西浦のところを農園にして、家族や身よりのない人も一緒に畑を作ったり、一緒に暮らしたいなあとと語っていたとのこと。でもそれは実現しなかったと言われたが、形を変えてすこしずつだけれど実現しているように私は思った。
 写真は義春さんが二度目の脳梗塞を起こした後、明水園に入っていたが本願の会と熊本県の調印式に出席されたところ。右側の水色のチョッキが義春さん、後ろが京子さん、その左後ろがゆりさん。

 定番と言っておきながら夕食メニューを忘れた。まいどおなじみのGコープの冷やし中華。ハムがないからもらったさいぼし、金糸卵(水俣の山奥で平飼養鶏やっている友だちから毎週届けてもらっている。10個350縁)、家庭菜園で大きくなってウリと見まごうキュウリの千切り、ちょっとしなびたミニトマト。デザートは娘の友だちのKAZUのお母さんがくれたスイカ。こう見ると我が家の食卓はずいぶんともやいモノが多いなあ。ラッキー!




posted by LJ21 at 08:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊本県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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