2005年09月01日

東京都港区 甲斐良治 3日目

帰省3日目の8月17日は、役場の工藤君とともに熊本県旧清和村の前村長・兼瀬哲治さん(59)に会いに清和文楽邑へ。兼瀬さんは、1987年ころから本格化した「文楽の里」づくりに役場企画係長としてかかわり、91年「文楽邑」支配人に、99年には村長になった方です。これまで「増刊現代農業」では『帰農時代』(99年)、『地域から変わる日本 地元学とは何か』(01年)などにご登場いただいてきましたが、実際にお会いするのはこれが初めてです。

それどころか、私が清和村の土を踏むのも約20年ぶりのこと。当時「月刊現代農業」の野菜や土・肥料・農薬担当記者だった私が、同村在住の「自然農薬」研究家・古賀綱行さん(82)のお宅に何度かお邪魔させていただいたとき以来です。古賀さんは、取材が終わると、私や同行の画家・貝原浩さん(故人)に食べきれないほどの仕出し弁当をふるまい、「この弁当は『お芝居弁当』といって、昔、この村で農村文楽がさかんだったときの名残り。昔のディナーショーじゃな」と笑わせたり、村の小さな公民館に展示されていた文楽人形の頭(かしら)を見に連れて行ってくれたりしました。

清和村は、私が陸路帰省する際に利用する高速バス「ごかせ号」(福岡〜高千穂〜延岡)が走る村です。それ以来、清和村を通過するときには古賀さんのことや文楽のことなどを思い出しながら車窓の風景を眺めていました。

ところがその何年か後のこと、清和村通過の際に、突然私の視界に、立派な木造の「文楽館」の建物と道沿いに林立する「お帰りなさいフェスタ」ののぼりが飛び込んできました。「文楽が復活したのだ!」―そう思い、古賀さんに電話で連絡し、紹介してもらったのが当時・文楽邑支配人だった兼瀬さんでした。

兼瀬さんはユーモアとウィットの人。以下『帰農時代』にご寄稿いただいた文章からその片鱗をご紹介すると――

――清和文楽保存会の定年は80歳である。今、農家の若い人は兼業で勤めている人が多い。そのような保存会員は日曜日の公演にだけ出ている。40歳の人はこれから20年間そのようにして過ごして60歳で定年になったら毎日、文楽館へ通うことになる。これを「60歳からの後継者づくり」と言っている。60歳から80歳まで好きな浄瑠璃を聞き、人形を操りお客様との交流で楽しさと元気をいただいて過ごすことになる。

―― 元気になったおじさんおばさんである。そのおじさんおばさんに目をつけたのは昭和54年であった。今から20年前のことになる。茶飲み話で浄瑠璃のことをを話すおばさんたちがいる。「たいじゅうが…、たいじゅうが…」と話している。体重が重いのか軽いのかと思って聞いていると、『絵本太功記十段目』のことであった。太功記の太と十段目の十を取って他を省略してしまっているのである。

――農業はもともと融通のきくところがある、専業農家の保存会員は農作業の合間に駆けつけている。公演がある時、忙しい時期は早朝と夕方が大事な農作業の時間である。農業が出来ないでしょうと心配されるお客様には「農業は今、流行のフレックスタイム制ですから」と説明している。農村は都市の効率、迅速、膨張や高度は無いが安定、融通、継続の力があるといえないだろうか。

いま「文楽館」の来館者は年間1万人どころか3万人。「物産館」「レストラン」が7万人。
観光客ゼロだった村は「農村文楽」によって年間10万人を呼び寄せる村になりました。

――(文楽館建設に「こんな田舎の人形芝居を見に来る物好きなんているものか、いたとしても二度とは来ないだろう)と反対されて)「フト考えた。一度はお出でると思っている。一度は保証付きである。九州内の1500万人の人が1年に1万人ずつ来ていただけるとしたら、それは1500年かかる。1500年のうちには二度ぐらいはお出でるのではなかろうか。と考えたときまた一歩を踏み出したのである」。






清和文楽の保存会員は約20名で年間公演回数は260回。担い手のほとんどは兼業農家の60〜80歳。

文楽がさかんになったのは江戸末期の嘉永年間。春4月と秋9月の祭りを中心に伝えられてきたということですが、「猫の手も借りたい農繁期になぜ祭りの日をつくったのか」という疑問に兼瀬さんはこうも書いています。

――それは豊作祈願願成のためばかりではなかった。それは「農休日」であった。農村は一律の社会であった。つい最近まで農休日の旗が掲げられ一斉に休みを取るのである。豊作祈願は五分の建前とされた。後の五分は本音の農休日であったと思われる。じつは働きたいのだが神様の名を借りてその心までも縛って休みを取るのである。農繁期の疲れた体を労るひとつの知恵であったのであろう。

江戸末期に新しく祀られる神様が増え、また祭りと「遊び日」が増えたのは全国的な傾向のようです。農文協から発行されている古川貞雄さんの『村の遊び日』(解説・結城登美雄さん)に詳しく述べられていますので、ご関心のある方はぜひご一読ください。「遊び日」に禁を破って働いた村人への罰則なんてケッサクな話もあります(増刊『21世紀は江戸時代』でも紹介)。昔の人はやたら「生産力の上昇」なんて求めなかったのですね。

また兼瀬さんは「物産館」をつくるにあたって、隣県大分の「一村一品はモノカルチャーだ」と、「一村百品」をめざし、農家の蔵を調べたら「いまあるものだけで70品、あと30品は一息だ」と女性たちを励ましたとのこと。

清和村では、まず「経済活性化」ありきの村づくりではなく「伝統文化」「生活文化」の掘り起しが周年の仕事づくりにつながったようです。


文楽邑見学の後は、標高700mの「清和高原天文台」へ。グランドゴルフ場や「清和高原の宿」もある人気のスポットです(本当はここに一泊し、九州在住の増刊現代農業ライターのみなさんや、『若者はなぜ、農山村に向かうのか』に登場する山村NPOの方々と交流会をもちたかったのですが、すでに予約で満杯でした。来年はぜひ計画的にやりたいと思っています)。

(画像は「高原の宿」。兼瀬さんによれば、50名規模のホテルを建てようとすると最低でも5億円かかるけれど、こうした1棟1200万円のロッジ10棟で50名収容できるそうです)


清和村から工藤君の車で40分かけて高千穂に戻ると、待ち受けていた同郷の高山文彦さん(45)と居酒屋「手力」(たぢから)と、店名は忘れましたが田舎には珍しいカフェ・バー風の飲み屋で痛飲。高山さんは『火花―北条民雄の生涯』で大宅壮一賞・講談社ノンフィクション賞を受賞したノンフィクション作家で、最近は『水の森』『鬼降る森』などふるさとを描いた作品も多く発表しています。

画像は昨年夏、ハワイ在住で夏を高千穂で過ごす画家興梠義孝さんのアトリエで『鬼降る森』について話す高山さんです。




posted by LJ21 at 13:06| Comment(1) | TrackBack(0) | 宮崎県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
甲斐さん こんにちは。<BR><BR>清和村、文楽邑、面白いところですね。生き生きとした姿に感銘を受けます。<BR>フレックスタイム制の究極の姿が、農業ですか。笑えますね。もしかすると<BR>古いものが最先端で、最先端のものがじつは非効率で、非人間的で<BR>楽しくないという逆説はありえるのかもしれませんね。
Posted by ホボです at 2005年09月02日 08:56
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。