2007年09月23日

出足快調!

9月22日(土)
映画はシネツイン1という広島のミニシアターでは
老舗の映画館で今回、初めてのお付合いとなる。
私はこれまで映画館で上映した作品は、
いわゆる「原爆」ものだった。
本来私がやってきた「民俗」的なテーマの映画を
映画館でやること自体初めてである。
無謀な試みなので最初映画館側も心配されていたようだが
この一週間でメディアの対応もよく前評判もあがってきていた。

1日、二回15:00と20:40の上映で今日は合わせて81人の方に集まっていただいた。
やはり初回に集中し、盛況なスタートとなった。

swaki-te.jpg

映画に登場した職人の沢木さん、(写真)かやぶき研究会の上田さんも立ち寄ってくださった。
お客さんの中に建築事務所の方もこられ
「いやあ、おどろきました。住まいというのは暮らしの根幹から
 生まれてくるんですね。」という意味のようなことを仰り
かなり「参りました」みたいなことを言われていた。
やはりプロからみても「伝統」にはかなわないってとこか。

9月23日(日)
本日は、昨日の二回分の動員を1回目だけで越えてしまった。
また今日は映画の主役である職人・石井さんにも来ていただいた。

.

どんどん集まっていただいてぜひとも「広島かやぶき文化」を感じて欲しい。まず地元人が足元をよく知ることから「文化」は生まれるし
継承されていくのだから…

今、上映の舞台挨拶を続けながら考えた。
「広島」という地は、「出稼ぎ」と「移民」で
成立してきた部分が大きいような土地柄と思う。
「炭坑・左官・石工・イワシ漁…」出稼ぎは大きな文化だ。
それはほとんど記録にも残されていない。
しかしその記録こそ急務である。
今後の私のテーマだ。

これから夜の会の舞台挨拶行ってきます。

この映画、これから全国各地にもぜひとも上映していきたい。
でもちょっと他地域の映画館では無理かな。
自主上映会を開いてくださる方、
ご興味がある方、ぜひご連絡お待ちしております。

私のHPからメールできます!

よろしくお願いします!
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いよいよ公開開始!

9月20日(木)
『藝州かやぶき紀行』公開直前のため作品を
スタジオでチェックして音や絵のつなぎなどを微調整。
映画は3月に完成したのだが、
劇場から公開用にはもっと短くとの要望があったため
最初のバージョンより8分ほど切っている。
しかし、改編版の方がより洗練され
言いたいことが、ほぼ全力投入できたと思う。

9月21日(金)
18:20NHK広島局にて「お好みワイド」に生出演。
映画の公開を記念して
「☆特集 茅葺き職人の技を後世に」
という特集を組んでくれた。
とてもありがたいことだ。

この番組のDアナウンサーが映画を観てくれて
大変、関心を示され13分近く使って放送してくれた。
映画の主役でもある茅葺き職人・石井さんも東広島市から同時中継。
かなり大掛かりな番組にしてくれた。
明日の公開の反響になればよいのだが。

聞き手になってくれたアナウンサーのお二人が
とても話しやすい方だったので、気負いなく話せた。
しかし生で見る女性のIアナのお美しさに少々ドギマギ。


9月22日(土)
午前中、県民文化センターの展示品を撤去。
公開記念の展示会へも相当な数来ていただいた。
おそらく2週間で1000人近く来てくれたようである。

さていよいよ初公開の日だが、
上映の様子は明日まとめて書くことにする。
とりあえずは盛況でありました。

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2007年09月20日

おひさしぶりです

B5-friyer-mini3.jpg大変、おひさしぶりです。
広島でドキュメンタリーの映像作家やってます青原さとしです。
2004年の6月にも日記書かせていただきました。

このたび新作映画『藝州かやぶき紀行』を完成させたこともあり
LJ21のAさんにご案内いたしましたら
ドタバタ日記と風土倶楽部にいち早くご紹介していただきました。
それと同時にAさんは、「3年ぶりだから『今週の私』に再登場なさい!」とのお誘い。

引き受けましたと、軽い返事をしたのはいいが
その後、映画の公開が近づくにつれ忙殺の毎日。
申し訳なくも3日も遅れて書かせていただきます。

私は、この3年間、故郷・広島に居を構え
『雪国木羽屋根物語』『望郷−広瀬小学校原爆犠牲者を探して』
そして今回の『藝州かやぶき紀行』と続きます。
詳細は以下をご覧ください。

『土徳の世界』


さて日記なんでこれまでの3日間をざっと書いておきます。

9月17日(月)NHKラジオ第一に早朝7:30に起こされ電話で生インタビュー
ローカル放送だが、『藝州かやぶき紀行』の思いなどを
話した。聞き手のアナウンサーが前の日から熱心に
リサーチしていたのでとても話しやすかった。

9月18日(火)
朝9:00広島県民文化センターにて地元TV局TSSから取材を受ける。この県民文化センターでは、現在映画の公開を記念して展示会を開催している。(ブログ参照)若いディレクターでちょっと心配な聞かれ方。お昼「いいとも!」の前の時間のニュースで無事放送された。
所用を済ませ、家でHPの原稿書きと静止画像製作。

9月19日(水)
知り合いのお寺さんへ前売チケットのセールス。快く購入していただいた。そのまま映画に出演された広島在住の炭坑研究家・石井出和子さんに久しぶりのご挨拶。相変わらず元気がいい。
「映画のチラシコピーしてみんなに誘っているわよ!」
昭和30年代まで広島の茅葺き職人は、炭坑地帯にも出稼ぎに行っており、それが広島坑夫とも密接なつながりをもっている。石井出さんは、そのことを映画制作中にご教示いただいた方である。

HPがやっと更新UP、デザイナーのセンスもあり
なかなか出来栄え!






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2004年06月06日

青原さん 6日目と7日目

●6月4日(金) 晴れ 広島県広島市安佐南区

ほとんど一日じゅう、この原稿を執筆していた。

●6月5日(土) 晴れ 広島県広島市安佐南区
今日も同じくずっとパソコン打ち。明日も自宅作業の予定。あまりにも味気ない
ので、明日分も含めて私の暮らしている周辺について記すことにします。

私の実家は、広島市の都心・中区十日市の真光寺というお寺だが、私は、現在、
安佐南区西原という所に暮らしている。広島のデルタの西北部にあり、主流・大
田川を北上すると、このあたりから徐々に山間地に入っていくという場所であ
る。



なぜ私が、ここを拠点にしたかというと、近くの祇園町という所に武田山という山があり、我が真光寺は、この山にあったという伝承があるからだ。映画『土徳』に登場した仏護寺(現・広島別院)もこの山の麓にあったという。
毛利氏が、広島を支配するずっと以前、武田氏が山城を構えていたといわれる時代(13世紀後半から16世紀まで)の話である。



そしてこの祇園町あたりには、なんと「青原」という地名の集落もある。
青原地区は、武田山から連なっている谷戸地にあり、棚田や段畑が、ポツポツみられる。古くからセリの生産が盛んで「祇園のセリ」として出荷されている。花祭りや田休みなど農村らしいお祭りも残されている。高みから見下ろせばすぐ田畑とマンションなどのビル郡が混在して見える不思議な場所である。

映画「土徳第二部」の舞台にするつもりで、私は、ここをフィールドの中心にし、撮影を進めている。それは私自身のルーツ探しでもあり、安芸門徒の成り立ち探しでもある。

今後、月1回、土徳公式サイト・安芸国人聞き撮り日誌にその報告をしていきますので、ご興味のある方はぜひご訪問ください。



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2004年06月05日

青原さん 5日目

6月3日(木) 晴れ 広島県広島市
広島についた途端メールが入っていた。私の本川小学校時代の同級生からで、昼食会の誘いだった。同級生の一人に吉山君という友達がおり、彼は「よっちゃん」というお好み焼き屋さんを開業している。そこでの昼食会である。これは、友人の店だから紹介するのではなく、この「よっちゃん」のお好み焼きは、本当にうまい!




近年、全国的にも有名になった某オタフ○・ソースは、大量生産も加わって、味が落ちているらしい。よっちゃんでは、カープ・ソースを使っている。名前からして、新しそうに思えるが、明治二年に創業された三次の毛利醸造の製造で、「どっちの料理ショー」などにも紹介されいまマニアの間でブームらしい。




吉山君は、素材にもこだわるが、作り方は懇切丁寧だ。麺は、ラーメーンのようにすべて湯通しして焼くのである。またチーズ入りなど普通ソースなどの影響で味がわからなくなるが、ここのチーズ入りは風味が非常によいのだ。




とにかく広島においでのさいは、「よっちゃん」にきてみんさい。
広島人が絶対おすすめします!

広島市中区基町11-10千代田生命ビル地下です。
紙屋町交差点そごうデパートの向かい側だあります。



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2004年06月03日

青原さん 4日目

●6月2日(水) 晴れ 富山県東砺波郡城端町西上
広島に帰る前に太田住職が、城端別院・善徳寺に案内してくださった。

善徳寺は、文明3年(1471)、加州に蓮如上人が開き、栄禄2年(1559)に当地に移築さrれた。天正13年(1585)本願寺が、豊臣秀吉と講和するまで、瑞泉寺、勝興寺と並び、越中の一向一揆の拠点寺院として活躍した。


文化6年 (1809)の山門。複雑に組み込まれた軒下の斗栱(ときょう)や、緻密に掘り込まれた扉の木彫に圧倒される。境内には、山門を作った大工棟梁の碑がある。

本堂の脇の「お花部屋」に案内される。善徳寺では、365日無休で勤行と法話が営まれる。毎日、供えられる仏花は、城端町民によって結成された「お花講」が、奉仕で活けるのである。



ずいぶん老朽化し風格さえ感じさせる「庫裏」脇の倉庫にたくさんの樽があった。太田さんが語る。
「これは、さば寿司で、報恩講のときのお斎(とき)に出すもんです。これを漬けるためのお講・さば寿司講があるんですよ。全部、町の人たちで組織されてます」


庫裏から台所に案内される。
別院の高島浄心さんが、熱っぽく語る。
「この囲炉裏は前はもっと大きかったんです。11月の雪囲いの時や報恩講のときなどに門徒のみんなあつまってここで暖をとりながら、談合(膝をまじえて本音で語り合うこと)をしていたんですね。
昔、『越中・能登・加賀三カ国、善徳寺門徒たるべくそうろう』といわれるくらい多くの門徒の懇志によって善徳寺は成り立ってきました。いまでも実際それで動いてます。かつては1千カ村といわれてましたからね。」


善徳寺は1672坪の敷地で29棟もの建物がある。まるで迷路のような入り組んだ廊下を歩いてゆく。途中で一人にされたら、おそらく迷子になってしまうだろう。
封建時代やお寺の格式を伺わせる部屋へ次々と案内される。
殿様や本願寺の法主などが利用する所と一般僧侶が利用する所と二重構造になった廊下。



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青原さん4日目-パート2

赤いじゅうたんの敷かれた「御殿」の床下には、しじみ貝の殻が敷き詰められている。


湿気防止と忍びの者が来た時に足音で知らせるためだという。



「大納言の間」は、桃山時代の建築をよく現しているとされ、慶長九年(1604)加賀藩主・前田利長が宿泊したといわれる。




「これは平成13年に修復をさせてもらいました。柱などそのままです。この床柱。普通床柱といったら、紫檀とか黒檀とか柾目とか、そういう経済に応じた柱ですよね。ところがこれはそういうりっぱな柱じゃないんですよ。割れとったりね。にわか作りするような木なんですよ。特にこの木なんか完全に虫食いですよ。400年たったからこうなったんじゃなく、当時、建てるときからわざわざこういう木を選んで使っているんですよ。

これは、建築の先生が仰ってたんですけど、この柱はかようなことを語っているように思えます。
『殿様よ、あなたを雨露からしのいでいるのは、こういうその辺にあるような柱、いやそれ以下の柱であなたを雨露からしのいでいるのですよ。それと同じようにあなたは、大衆、いろんな人の力によってあなたを守っているのですよ。この柱はいわば落ちこぼれですけど、この脇床に立って仕事しとる。これも生きとる。』ということを教えてくれているんです。」



こういった神社仏閣は、これまで私も京都・奈良など日本各地で、何度もみてきた。しかし今回の城端別院で驚かされたのは、その大伽藍を作り支え維持してきた民衆が、現在も目に見える形で生きていることである。それが「講」という地域を基盤にした組織であり、それこそ土徳を形成してきた根幹なのであろうと改めて思った。

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2004年06月02日

青原さん 3日目

●6月1日(火) 晴れ 富山県東砺波郡城端町大窪
昨日に引き続き、勤行、法話、上映が続く。まるでマラソンのようだ。もともと上映は、昼と夜の二回だったが、この日の朝、石川県の小松市や、富山県の上市町など車で2時間以上かかる遠方からこられたお客さんが多かったので、朝も上映することになった。
大福寺の総代長の加藤平次郎さんが、今日も元気よく「お賽銭お願いします」と賽銭カゴを参詣者に差し出す。この竹製の柄の長い賽銭カゴは、参詣者から賽銭を徴収するための道具で、勤行や法話、上映の前後にかならずタイミングよく出される。これは、浄土真宗大谷派寺院の独特な習慣のようで、私は、本願寺派(西本願寺系)出身だが、このような習慣はない。よく真宗僧侶の説教が、落語や浪曲などの文化の源流であるといわれるが、この賽銭カゴを見ているとそれを彷彿とさせる。なにか微笑ましさすら感じる。



お客さんの中には、昨日も来て頂いた方が、何人もおられる。映画を二回も三回もご覧になってくれているのである。「何回か観ることで映画がよく理解できました」とか「お父さんの法話を聞いているようでまた観に来ました」とかありがたい感想をいただいた。朝の回が終って次の回の準備をしていると本堂の中に一人ポツンと座ってお弁当を食べているおばあさんがいた。次の回も続けてご覧になるようだ。そのおばあさんは、私のところに近寄ってこられた。そしておもむろに「これをとっておきなさい」と500円玉をポンと渡された。やはり僧侶と芸能者は、同類であることを確信した。


夜19時・最終回。さすがにお客さんの数は減り、15,6人であったが、この会のお客さんは、城端別院や岐阜県高山市の別院の方など僧侶の方々が多く集まられた。私が民族文化映像研究所時代にお世話になった上平村教育委員会の道宗氏もこられ、非常になつかしい思いがした。
この回は、お客さんの人数が手ごろだったので、上映終了後、車座になってそれぞれが映画の感想や意見を言ってくれた。「土徳こそ、ご本尊であり村の氏神であると思った」「映画の中で青原さんのお父さんが『土徳はなくなる』と言われ広島の話だけど自分の地域のことを思わずにはおられなかった」「私は百姓やっておりますけど、家におると孫とも話の接点がなく、土徳の継承をこれからどうやっていけばいいのか考えさせられた」「浄土真宗地域の土徳は、真宗だけではなく村に真宗以前から伝わるお祭りなど様々な文化があって土徳を土徳たらしめていると思う」「私はいまの年になっても父親と対話することがなく、今日の映画は自分の父親と話をしているような気がした」どの方々もみな一同にこの作品を「自分の問題」として受け止めていただいたようである。自分の身と心を考えることこそが、「土徳」を「土徳」たらしめていくのではないかとあらためて思った。
これまで日本各地で拙作を上映してきたが、これだけ長い時間かけてお客さんと対話ができる上映会はなかったように思う。これは素朴な道場の気風を残す大福寺だからこそ実現したのであろう。本当に有意義な上映会だったと思う。


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2004年06月01日

青原さん 2日目

●5月31日(月)雨 富山県東砺波郡城端町大窪
朝9:00、永代祠堂会は、住職の勤行から始まる。その後、住職の法話と私の挨拶、そして午後映画上映と話し合いがあり、夜にも映画が上映される。同じ日程が明日も続き、映画は4回上映されることになる。本来、永代祠堂会は、他寺院の僧や布教使を招いて数日間勤行と法話が繰り返されるのである。
雨にもかかわらず参詣者の方々が続々と参集された。太田住職が、勤行の後、法話を始められた。




昭和20年、棟方志向が、福光に疎開していました。戦争中ですから食料なども、一番苦しい時ですね。そんなときにお寺は、毎月かならずお座・法話会をやっていました。どこのお寺も毎月1回やる。そうしますとお寺は全部満員となるんですね。いま豊かな時代になって余裕がでてきたら、お寺に人は来んようなった。その頃お寺は全部満員。


で棟方さんは、その頃、東京で柳宗悦さんから指導をうけてました。柳さんは棟方さんの絵とか版画を、「どうしても『我』が入っとる。これがなかったらいいのになあ。」と評す。ところが棟方さんは「そう言われても我はとれん、どうしていいかわからん。でもとらにゃあならん。」棟方さんも悩んどった。そして棟方さんが福光へ疎開して1年。柳宗悦さんが様子を見に来たら、びっくりした。全然違っとるんやね。こん時に、棟方は一つの目を開いた。だから世界が棟方になった。


柳先生は、「しかしお前、どうしてそう急に変わったんだ」と聞いたら。いや別に「ただお寺へ参った」「ふーん、お寺へ参ったか。そしたらよっぽど素晴らしい高僧の方に出会って、教えを受けたんだね」「いやいやこの辺の坊さんはろくなもんじゃない。いばっとるし、酒ばっかり飲むし、あまり勉強しとらんし。ところが、坊さんは頼りないけどそこへ来る門徒さんがすごいんだ」と。「このへんのお寺参りをしとるうちに、畳の上に門徒さんらといっしょに座って、時間をすごすうちに、知らんうちに私の絵がこうなりました。」
 普通やったら圧倒的な力量をもったえらいお坊さんが、おれについてこいと。ほんで弟子が坊さんの真似して半分もできればえらいと。こんなの普通でしょう。ところが真宗の場合は、坊さんが一番たよりないんですね。ところがみんなでひとつの道場に集まって、いろんなことを語りあっているうちに自然に、心の「我」がとれる。そしたら我がとれるということは別のもんが入ってくる。これが「徳」。「徳」いうのは自分でこしらえたものではない。
柳宗悦さんは、民芸運動やってこられるなか、焼き物やら自分の我の入らないものこそが一番美しいんだと仰るんですね。芸術というのは我の塊みたいなもんだ。みんな芸術家がえらいえらいって言いますね。芸術家が作ったものは珍しいし、変わっとるし、ほめたたえる。柳先生は、美というのは、そんなもんじゃないんだと。自分らが何の気なしに使っとるようなのが一番美しいんだと。安物で、美しいものを作ってやろうと作ったんじゃなくて、知らんうちにできたもんが、実は素晴らしいと。何でかっていうたらそれには「我」がないから。美というのは、弥陀の本願が働いたものだ、もっといえば、自分の我でこしらえたものは、美でないんだ。それは美しいかもしれんけど。それは「相対の美」。つまり美しいけどうっかりすれば醜くなる。醜くなりたくないからがんばって一生懸
命、美にしがみつく。
 それに対して「絶対の美」これは人間の思いでこしらえるのでなくて、弥陀の本願、他力というものが働いてできる。こういうことを仰るんですね。そういうものがまさにこの砺波地方に働いておる。これは単に昨日今日できたものではない。おそらく蓮如上人以来、ずーっと500年にわたってここのご先祖方が、代々継続して、仏法というものを喜んできた。そういうものが一つの力になった。その力が、このあたりの人間の生活にもあるし、大自然の中にも染み付いておる。そうするとそういうところに入ると人間は意識せんでも自然に救われていく。心が開かれ、明るくなる。「我」がとれていく。そして柳さんは、こう仰った。「これを私の造語で『土徳』とする。真宗は土徳の宗教である」


午後、スクリーンや暗幕が、本堂内に設えられ、上映開始前になると近隣近在の門徒さん方が、朝以上の数、集まってくださった。100人以上は、来られていると思う。すごい上映会になりそうだ。

上映会の様子は、明日分にまとめてご報告します。


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2004年05月31日

広島県広島市 青原慧水さん

はじめまして。青原さとしと申します。本名は慧水(えすい)といいます。何でこんな変な名前かといえば、私はお寺の生まれで坊さんの資格をもっているからです。ドキュメンタリー映画を製作しているので俗名である「恵(さとし)」を芸名にしています。
今年の2月末から23年ぶりに故郷・広島に居かまえ次回作を模索しながら、プータロウをしております。こんな男の行動をこのようなサイトに載せていただけるとは、少々気がひけまするが、朝田くに子さまのたってのお願いということで乱文ながら執筆させていただきます。
今週の初めは、富山県城端町に滞在中で、そこから始めると中途半端なので、少しさかのぼってから書き出しますのでご了解くださいませ。
なお私のプロフィールは『土徳』公式サイトをご参考ください。またローカルジャンクション21の方には、当サイトの「安芸国人聞き撮り日誌」がお薦めです。

●5月30日(日) くもりのち雨
 昨晩、高速バスで広島を立ち、翌朝大阪で乗り換え夕方に富山駅についた。駅
で大福寺住職の奥さんが、車で迎えてくれた。奥さんがいった。「うちの方は、
金沢駅の方が近かったんですけどね」
広大な田園にぽつりぽつりと屋敷林のある家が散在する砺波平野。浄土真宗大谷
派・大福寺は富山県東砺波郡城端町大窪というところにある。



明日、この大福寺で永代祠堂会(えいたいしどうえ)という法要が2日間営まれる。その法要で拙作『土徳−焼跡地に生かされて』が2日間・4回にわたり上映されるのである。



大福寺に到着すると太田浩史住職が、部屋に案内してくれた。棟方志向、柳宗悦などの書画の掛け軸や焼き物が、通りすがる廊下や部屋のいたるところに飾ってある。現住職および先代の太田利男氏は、民芸協会の会員であり、利男氏は、昭和20年代に棟方志向、柳宗悦らの民芸運動の同士でもあられたのだ。



棟方志向の書1


凄いお寺によばれたものだとあっけにとられていると、奥さんが、「あっちの部屋で御花講の方が呼んでおられます」と別の部屋に招かれた。二人の老人が、酒宴をしており「監督さんは、一献やらんといかん」と誘われた。このお二人は、城端別院に仏花を活ける「御花講」の講中だそうだ。大福寺の門信徒でもあり、大福寺の仏花は、必ずこのお二人が奉仕として活ける。
農家であるお二人は太く無骨な手でお猪口をあおる。話題は、拉致問題とイラク問題なのに、話の展開が、最期には「自分とは何か」の問題に集約されて、お坊さんさながらの会話なっていくのには、圧倒されてしまった。



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広島県広島市 青原慧水さん 1日目

はじめまして。青原さとしと申します。本名は慧水(えすい)といいます。何でこんな変な名前かといえば、私はお寺の生まれで坊さんの資格をもっているからです。ドキュメンタリー映画を製作しているので俗名である「恵(さとし)」を芸名にしています。
今年の2月末から23年ぶりに故郷・広島に居かまえ次回作を模索しながら、プータロウをしております。こんな男の行動をこのようなサイトに載せていただけるとは、少々気がひけまするが、朝田くに子さまのたってのお願いということで乱文ながら執筆させていただきます。
今週の初めは、富山県城端町に滞在中で、そこから始めると中途半端なので、少しさかのぼってから書き出しますのでご了解くださいませ。
 なお私のプロフィールは、『土徳』公式サイトをご参考ください。
 またローカルジャンクション21の方には、当サイトの「安芸国人聞き撮
 り日誌」がお薦めです。 http://www33.ocn.ne.jp/~dotoku/


5月30日(日) くもりのち雨 
昨晩、高速バスで広島を立ち、翌朝大阪で乗り換え夕方に富山駅についた。駅で大福寺住職の奥さんが、車で迎えてくれた。奥さんがいった。「うちの方は、金沢駅の方が近かったんですけどね」
広大な田園にぽつりぽつりと屋敷林のある家が散在する砺波平野。浄土真宗大谷派・大福寺は富山県東砺波郡城端町大窪というところにある。
大窪地区一帯はかつて山田郷と呼ばれ、江戸時代初期、新田開発された村である。各地から開拓にきた約400軒ばかりの農民たちは、真宗門徒であった。彼らは、自分たちの村に真宗道場・大福寺を建立した。門徒たちは移住前の各村にある手次寺とも縁を切らないまま、檀家のないお寺として大福寺を今日まで支えてきた。
明日、この大福寺で永代祠堂会(えいたいしどうえ)という法要が2日間営まれる。その法要で拙作『土徳−焼跡地に生かされて』が2日間・4回にわたり上映されるのである。



大福寺に到着すると大田浩史住職が、部屋に案内してくれた。


棟方志向、柳宗悦などの書画の掛け軸や焼き物が、通りすがる廊下や部屋のいたるところに飾ってある。現住職および先代の大田利男氏は、民芸協会の会員であり、利男氏は、昭和20年代に棟方志向、柳宗悦らの民芸運動の同士でもあられたのだ。



凄いお寺によばれたものだとあっけにとられていると、奥さんが、「あっちの部
屋で御花講の方が呼んでおられます」と別の部屋に招かれた。二人の老人が、酒
宴をしており「監督さんは、一献やらんといかん」と誘われた。このお二人は、
城端別院に仏花を活ける「御花講」の講中だそうだ。大福寺の門信徒でもあり、
大福寺の仏花は、必ずこのお二人が奉仕として活ける。
農家であるお二人は太く無骨な手でお猪口をあおる。話題は、拉致問題とイラク
問題なのに、話の展開が、最期には「自分とは何か」の問題に集約されて、お坊
さんさながらの会話なっていくのには、圧倒されてしまった。



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