2005年03月26日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治 6日目

帰りの航空機は、メンテナンスで数時間遅れたものの、空いていてゆっくりできた。

 一年ぶりのニューヨークだったが、全体として感じたことは、たった一年でニューヨークは随分と変わったということだ。

 それはきっと、東京も、上海も、ローマも、ロンドンも同じことだろう。さらには、たった一年で、アイダホも、オクラホマも、八戸も、銚子も、ミュンヘンも、トスカーナも、随分と変わったんだろうと思う。

 変わらなきゃいけないことは全然ないが、変わっちゃいけないことも全然ない気がした。何を残すべきか、残すためにどんな工夫が必要なのか、そのあたりを市民が考えていく土壌が大事なのかもしれない。
 ちょっとした工夫なしには、どんどん変わっていくしかないし、変わらざるをえない。そんなことを、ニューヨークの街並みの変化から垣間見た。

 最近、ニューヨークでは、ガラス張りの開放的なビル建築が盛んなように思える。そういえば、日本の最近の建築もガラス張りが多い。外壁はほとんどガラス張りで、ビルの主柱は内部にあるスタイルだ。石造りのビルであっても、一部はかなり老朽化し、100年、150年ものになると、建替えが急務らしい。

 しかしながら、東京ではあまり感じないのだが、100年以上昔からの、重厚な石造りのビルに包まれたマンハッタンでは、どうしてもガラス張りのビルは浮いてしまうのだ。景観に合わせて、石造りのビルであったら、どんなにいいだろう、と感じてしまう。「ビルヂング」の中に「ビルディング」が混じっているとでも言おうか。

 そうかといって、現代において、昔ながらの重厚な建築様式は、もはや不可能なのかもしれない。100年前のような法外に廉価な移民たちの労働力はない。バンダービルド家やロックフェラー家など、アメリカン・ルネサンスを支えた大資本家の莫大な資本力と、資本集積社会もない。変わらざるをえない。

 そこで、どんな工夫が必要なのだろうか。何気なくニューヨークに生きているわけではなく、「よそ者」として、ニューヨークを覗いたとき、そんなことを考えさせられた。ニューヨーカーでないからこそ、見えてくる視点。そんなものがあるのかもしれない。
 
 同じように日本の各地の変わりようを見たとき、「よそ者」だからこそ見えてくる視点があるように感じた。
 日本に住む外国人から学べること、県外者から学べること、そんなことがたくさんある気がする。

 イタリアの職人芸も世界で売れるからこそ、その形態を保っているのだろう。日本の街並みや暮らしぶり、産業にも、きっと同じようなことが言えると思う。真のナショナルこそインターナショナルになれるだろうし、インターナショナルから学べることは思いのほか多い。

 そう考えたとき、グローバリゼーションのちょっと素敵な一面を、なんとか感じられ、未来に希望を見出せる気がするのだ。

 (写真は、ニューヨーク中央郵便局。郵便局にこんな大袈裟な建築は、現代において、もはや不可能だろう。正面には、"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds" (雪雨も灼熱も暗黒の夜も、郵便配達人をその職務の貫徹から妨害するものはない)と、これまた大袈裟な文句が刻み込まれている。)


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2005年03月25日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治 5日目

時差ボケがなかなか抜けなかったこともあり、朝の4時頃目が覚めてしまった。

 適当にやり過ごしてもよかったのだが、朝の4時に目が覚める機会なんて滅多にないので、朝の4時にしか行けないところに行った。

 そう、ニューヨークの「築地魚河岸市場」、フルトン・マーケットである。へい、らっしゃい。

 大きさは築地と比べてしまうと、見劣りするのだが、大西洋に上がる魚たちが売られていくさまは、まさに初体験だった。また、建築的にも、最近のサウス・シーポート一帯の再開発で、古くからのレンガ造りの建物をうまく残しながら、市場が立っているので、趣深い。巨大工場のような築地市場も活気があっていいが、この雰囲気も捨てがたい。

 魚の種類では、淡水魚か海水魚かわからないのだが、フナのような姿で、50センチくらいある魚が、わりとよく揚がっていた。フナのようにウロコが大きく、灰褐色でつや光りする。日本料理ではまず使わない素材だろうが、チャイナタウンでは見かけてもおかしくなさそうだ。

 日本料理で使いそうな食材といえば、マグロが揚がっていた。しかも、切り身のことはここでも「サク」というようだ。これは築地でも使う言葉で、料理人が買うくらいの大きい切り身を「サク」といい、1サク、2サクと数える。きっと、「one saku」「two sakus」と数えるのだろう。

 思わぬところで、ボーダレス時代が進んでいる。

(全く知らなかったのだが、フルトン・フィッシュ・マーケットは6月を目処に、ブロンクスに移転するらしい。ちょうど、23日付けのNY Times電子版に記事が出ていたのを、帰国後に見つけた。そういえば、築地にも移転問題があった。最近はどうなっているのだろうか。 http://www.nytimes.com/2005/03/23/dining/23fult.html )



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2005年03月24日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治 4日目

ニューヨークは例年になく、冬が長引いている。

 昨年同じ時期訪れたとき、ジャケットは必要であったが、コートはいらなかった。ところが、厚いコートで身をくるんでも、寒気が体中に刺し込んでくる。おまけに、ここ2日間氷雨が降り続く。

 街で配られるフリーペーパーには、あまりの冷え込みから現実逃避しようと、「とりあえず、公式に春ということにしてはどうか」などという下らない記事まで載っていた。

 一方、寒いおかげで、花粉症は少し楽である。アメリカにも花粉症はある。ひとによっては、海外では反応しないひともいるらしいが、僕の場合はオクラホマで大学生活をしていた時からヘビーに反応していたので、あきらめている。

 知らなかったのだが、この時期、アメリカでも花粉症対策のCMをやっていた。もちろん、日本のような国民病ではないので、おだやかなものだが、それでも、春らしい緑あふれる大地で元気に楽しむ人、みたいな情景を流して、「鼻を垂らしてないで、春を楽しもう」みたいな雰囲気を演出するCMに何度か出会った。余計なお世話である。だんだん腹が立ってきた。

 ちなみに、アメリカの花粉症薬は、なんと、24時間効く。「一日2回飲めば効く」のではなくて、「一日1度飲めば効く」のである。

 なんともおそろしい。


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2005年03月23日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治 3日目

僕はどうのこうの言ってアメリカを愛している。

 スローフードに取り組んだり、行き過ぎたグローバリゼーションに警鐘を鳴らす方のなかには、アメリカを目の敵みたいに言うひとがいるが、忌み嫌ったところで、アメリカが消えてなくなるわけではないし、いい意味でも悪い意味でも強大なその帝国的国力はゆるぎないものなのだから、いちいち嫌っていても仕方がないし、リアリティーがない気がしてしまう。
 
 それよりも、程よく付き合いながら、もしアメリカに問題があるようならば、的確な助言を与えるほうが、人情というものだ。

 さて、スターバックス増殖中のニューヨークだが(最近は、その波もだいぶ収まったらしいが)、世界各国の料理が一同に介すのも、またニューヨークである。

 よく日本人は、海外の文化を受容するのがうまい、というが、それは自惚れで、アメリカ人の受容力にはかなわないように思える。

 「うまいんであれば食ってやろうじゃないか」。そのハングリー精神が今のアメリカを築いてきた。今週のTime Out誌には、「串焼き」が数ページに及んで特集されていた。(ニューヨーカーが読む雑誌は主に3つで、1.New York 2.New Yorker 3.Time Out である。3番目が一番、若者向けというか、斬新というか、軽いというか、それでいてひねくれているというか、というような誌面)。

 串焼きである。焼き鳥でも、寿司でもなく、串焼きである。アスパラとシュリンプの串だとか、温野菜の串withワサビだとか、そんな串焼きがでかでかと特集されている。

 ここ数年で、また一段と、日本料理はアメリカに受け入れられたと思う。
 
 特にニューヨークでは、店のバリエーションも様々に増えた。ロウアー・マンハッタンの超高級レストランNobuやNobu Next Doorなど、ザガットに偉そうに載るような店から、リトル・トーキョーとも近頃では言われるようになった、セント・マークス・プレイスの焼き鳥屋や大衆居酒屋まで、広く受け入れられている。

 特にお勧めは、純日本料理ではなく、少しアメリカナイズされた日本料理のなかで、センスのよいものである。例えば、ご批判もあるかと思うが、アボカドを寿司のネタにしたのは、これはすごい発想力ですぞ。

 とりわけ、セント・マークス・プレイスのRestaurant Dojo(レストラン ドージョー)は、イチオシである。え?なんでこんなものが一緒になるの?という取り合わせのメニューなのだが、これが安くて美味い。ピタの中に、肉じゃがとレタスが詰まっていたり、ヒジキと豆腐のサンドウィッチがあったり、という感じ。まず、普通に日本で暮らしていては、思いつかない目からウロコ的な取り合わせなのだ。日本人の客よりもアメリカ人の客のほうが多いように思える。うどんの上にも、なんかスゴイものが乗っかっていた気がする。

 そういえば日本で先日、寿司屋にいた子供が、「やっぱりこれが美味い」とか言いながら、ツナマヨ巻きなどという軍艦を頬張っていた。

 「ホンモノの日本料理」だとか「純日本料理」などというものは、ひとつの陽炎のようなものだと、あらためて思う。



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2005年03月22日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治さん 2日目

ニューヨークでは多様性と画一性が日夜闘っている。

 セントラル・パーク・ウェストに住む友人は、「スターバックスがニューヨークを駆逐している」と嘆く。大戦前からそこにあるような、昔ながらのデリカテッセンは消え、店の主人とたわいもない会話を楽しむ余韻も失せ、代わりにグリーン基調の一見オシャレなチェーン店が進出する。
 「コロンバス・サークルにもできやがった。かんべんしてくれ、ここはシアトルじゃない。」

 一方で、国内国外からの観光客や、ニューカマーたちには、マクドナルドやスターバックスは好評のようだ。故郷の味だからだ。国外からの観光客がマクドナルドに多いのは、随分と皮肉である。

 地下鉄に居合わせた日本人観光客同士が話している。英語に不安があったが、スターバックスとマクドナルドのおかげで助かっているようだ。故郷と同じメニュー。故郷と同じ味。単調な注文方法。

 ギリシャ移民街、クイーンズのアストリアまで出向いて、地元民が通う食堂に行き、わけのわからないギリシャ訛りのウェイターと、見慣れぬ料理名に格闘し、なんとかギリシャ移民の味を、ほんの少しお裾分けしてもらう。そこまでしないと幸福感を味わえない僕と、マクドナルドに通い、日々を生きる人々とで、どちらが幸せか、というと、どうも自信がなくなってしまうのである。

 ピュア&シンプル。昔ながらのLOHASな暮らし方もひとつのピュア&シンプルであるけれど、チェーン店もフェーズの異なるひとつのピュア&シンプルなのかもしれない。

 値段も味もメニューもいつもと変わらない、一見安心な暮らし方。ややもすると、そんな「安心」な人生を批判する資格はどこにも見当たらない気がしてしまうのだ。

 敵は予想以上に手ごわい。


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2005年03月21日

神奈川県湘南台 乗竹 亮治さん 1日目

はじめまして、慶応義塾大学総合政策学部3年の乗竹亮治です。
今週は僕が担当します。専門はアメリカ国内政治ですが、同時に、加藤秀樹ゼミで、日本の地方を、伝統芸能を通して活性化しようとするプロジェクトを進めています。アメリカと日本の地方というと、全く関係なさそうですが、アメリカという国も広大なローカル・エリアを抱えていて、両者を有機的に結びつけて考えることは、実は重要なのではないかと考えています。それでは、今週よろしくお願いします。
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とにもかくにも花粉症がひどい。
ウォルホウィッツ氏の世銀総裁ノミネーションよりも、ライス長官の訪日よりも、ついつい記事を追う目は、花粉飛散情報に向かってしまう。
国際政治や外交を、まるで大国同士のパワーゲームのような視点のみから語る識者がいるが、そういうひとは、花粉症に一度なったほうがよい。「大国の興亡」よりも、極めてミクロ的な花粉の「ツブツブ」のほうが脅威なのだ。「どうして現場で鼻水が流れるんだ!」と声を大にして訴えたい。

花粉症がここまでの国民病になった背景には、諸説あるようだが、行き過ぎた植林やら、行き過ぎたコンクリート化やらが関係しているのは、どうやら間違いなさそうだ。何事も行き過ぎ、やり過ぎというのはよくないらしい。「ほんの少しをお裾分けする」――そんな世間的な暮らしぶり、ありていの言葉で言えば、コミュニティー重視の暮らしぶりが、今一度必要なのかもしれない。

行き過ぎやり過ぎといえば、「トタン」が頭に浮かぶ。あの波打ったトタン屋根の「トタン」である。先日までマレーシアを訪れていたのだが、トタンだらけだった。昔ながらの雨季を考慮した高床式の水上建築がせっかく残っているのに、屋根やら壁やらがトタンなのだ。マレーシアの伝統建築には詳しくないが、例えば、ヤシの葉や芭蕉の葉か何かで、屋根を葺いていれば、ずいぶんと美しいものを、トタンが途端にダメにする。

くやしいながら、アジアではよくある光景である。粋な町並みであっても、安いプラスチック材やトタンが、そこかしこに、大いに介在していて、どうも全体として安っぽくなる。
いったいぜんたいトタンとは何なのか。彼らはどこからやってくるのか。日本の敗戦直後の写真を見ても、バラックはトタンだらけである。物はなくても、トタンはあったのである。なぜだ。

プラスチック製品と同じで、トタンも安価で便利であるがゆえに、使用されているのだろうけれど、マレーシアの一地域一地域にトタン生産ファクトリーがあるとは思えないし、どこかで大量生産されているのかもしれない。トタンの流通や生産拠点、原材料に注目しつつグローバリゼーションや近代化の波を考えてみるのも面白そうである。今度やってみたい。

なにはともあれ、トタン屋根ではなく、ヤシの葉葺きの屋根が見たかった。水洗便所に電気掃除機にガスレンジにと、近代にどっぷりと浸った環境にいる身の、身勝手な哀愁と知りながら。

さて、明日から5日ほど、「近代の象徴」「20世紀の象徴」ともいえるようなニューヨークに行ってきます。アメリカは年数度行く機会がありますが、今回は約一年ぶりです。大都会に摩天楼に喧騒に、というニューヨークですが、ニューヨーク・ローカルな暮らしぶりに密着した、「ニューヨーク・ローカル・ジャンクション」が綴れればと思います。更新は帰国後になると思いますが、どうぞよろしくお願いします。


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