一年ぶりのニューヨークだったが、全体として感じたことは、たった一年でニューヨークは随分と変わったということだ。
それはきっと、東京も、上海も、ローマも、ロンドンも同じことだろう。さらには、たった一年で、アイダホも、オクラホマも、八戸も、銚子も、ミュンヘンも、トスカーナも、随分と変わったんだろうと思う。
変わらなきゃいけないことは全然ないが、変わっちゃいけないことも全然ない気がした。何を残すべきか、残すためにどんな工夫が必要なのか、そのあたりを市民が考えていく土壌が大事なのかもしれない。
ちょっとした工夫なしには、どんどん変わっていくしかないし、変わらざるをえない。そんなことを、ニューヨークの街並みの変化から垣間見た。
最近、ニューヨークでは、ガラス張りの開放的なビル建築が盛んなように思える。そういえば、日本の最近の建築もガラス張りが多い。外壁はほとんどガラス張りで、ビルの主柱は内部にあるスタイルだ。石造りのビルであっても、一部はかなり老朽化し、100年、150年ものになると、建替えが急務らしい。
しかしながら、東京ではあまり感じないのだが、100年以上昔からの、重厚な石造りのビルに包まれたマンハッタンでは、どうしてもガラス張りのビルは浮いてしまうのだ。景観に合わせて、石造りのビルであったら、どんなにいいだろう、と感じてしまう。「ビルヂング」の中に「ビルディング」が混じっているとでも言おうか。
そうかといって、現代において、昔ながらの重厚な建築様式は、もはや不可能なのかもしれない。100年前のような法外に廉価な移民たちの労働力はない。バンダービルド家やロックフェラー家など、アメリカン・ルネサンスを支えた大資本家の莫大な資本力と、資本集積社会もない。変わらざるをえない。
そこで、どんな工夫が必要なのだろうか。何気なくニューヨークに生きているわけではなく、「よそ者」として、ニューヨークを覗いたとき、そんなことを考えさせられた。ニューヨーカーでないからこそ、見えてくる視点。そんなものがあるのかもしれない。
同じように日本の各地の変わりようを見たとき、「よそ者」だからこそ見えてくる視点があるように感じた。
日本に住む外国人から学べること、県外者から学べること、そんなことがたくさんある気がする。
イタリアの職人芸も世界で売れるからこそ、その形態を保っているのだろう。日本の街並みや暮らしぶり、産業にも、きっと同じようなことが言えると思う。真のナショナルこそインターナショナルになれるだろうし、インターナショナルから学べることは思いのほか多い。
そう考えたとき、グローバリゼーションのちょっと素敵な一面を、なんとか感じられ、未来に希望を見出せる気がするのだ。
(写真は、ニューヨーク中央郵便局。郵便局にこんな大袈裟な建築は、現代において、もはや不可能だろう。正面には、"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds" (雪雨も灼熱も暗黒の夜も、郵便配達人をその職務の貫徹から妨害するものはない)と、これまた大袈裟な文句が刻み込まれている。)
